教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 290 回 授業 自学自習を阻むものは何だろう

前回、自学自習ができないことについてお話しました。
もう少し具体的に考えます。


一つ目は、課題がいつも指導者から与えられているということです。


私が、授業最初の5分間を大切にすることを伝えたことがあります。
そこでは、子どもたちが、「何をするのか」「何を使って学ぶのか」
「どのように学ぶのか、その道筋は」を少しずつ、自分の力で身につけていくことが必要だと考えました。
だから、教科書のどこを開いているか、どのような学習の準備をすればよいかを考えさせます。決して、一年間の半分をすぎたなら、今日の勉強はどこからするかは先生から伝えません。子どもたちから考えさせ言わせるようにします。


二つめは、学び方の問題です。


昨今、特に、国語などはワークシートを与えて記入させる学習が増えているようです。勉強会に来られる先生には、「できるだけワークシートを使わせないで、自力でノートに考えを書かせるようにしてください」と伝えています。
子どもたちからすると、学び方まで強制させられるワークシートがつまらないようです。
ワークシートは「独りが考えさせる手立てによい」といわれることがあります。決して否定するものではありません。
でも、独り学びというものは、子どもたちが教材、課題に関心をもち、意欲を膨らませているという前提が必要です。(これについては、別にお話します)


国語でいうならば、子どもたちが読みたいところを読ませてもらえない不満が残ります。理科実験の過程をまとめるために、ワークシートを使って整理しやすいように使わせることもありますが、それでさえ、できる限りはノートにまとめさせるようにします。
ワークシートで要求されていない気づきがあったり、課題からはずれて別の課題を求めたいことがあったりするからです。
さらに付け加えるなら、ノートに書く、まとめるという作業は、学んだことを関係づけて書くことができます。自分の学び、理解に応じて得た知識を再構築することができます。


三つめは、授業の進め方です。


「わかった・・・わからない」「できた・・・できない」の両極しかない授業の進め方です。これも必要な時があるので否定しません。
ただ、学問、学びには、わかったとわからないこと間のグレーゾーンのほうが多いということです。そして、その間のほうが楽しいことが多いものです。


「これでいいのかな」「これが正しいのかな」「これで納得していいのかな」など、子どもたちで自問自答できるようにします。
「自学自習」は言葉をかえれぱ「自問自答」の学習です。
ですから、子どもたちが先生の予想に反して、違う方向に興味をもって学ぼうとしたなら、ほほ笑んで見守ることも必要になってきます。
その時の子どもたちの様子は、本当に活気に満ちています。


四つめは、子どもたちがやり遂げた体験の有無です。


子どもたち一人ひとりを見つめていると、自分の力を使い切ったという経験がない子どもが多いです。甲子園の球児たちの終わったあとの顔を見ると、勝負に関係なく自分の力を出し切ったという表情をしています。
あの顔ですね。学習においても、そう毎日経験できることはありませんが、一度でもそのような経験をした子どもは自学自習に向かうことが多いです。


具体例をだしますね。
どの教科においても、子どもたちが納得のいくまで話し合ったという経験。
そのための時間を許した指導者の姿勢。
理科の探求学習では、1時間目に始めた学習が3時間目まで使ったということがあります。子どもたちは、自分の正しさを証明するための実験方法を考えるからです。


もう一つの具体例です。
私は、4年生以上には、次のような課題をだします。
4月に、独り勉強の百字練習について次のような指示をだします。
「今日から1万字の漢字を書きなさい。ノート一ページが百字ですから、ノート100ページ分になりますね。」
練習するところは、今まで習った漢字、まだ習っていない漢字です。ていねいに書くということを条件にします。
「さて、みんなは、何月頃1万字達成できるかな?」と背中を押します。


計算練習も同様にします。1000題の計算問題に取り組ませます。
これは子どもたちの能力によって、どの計算問題をするかは違ってきます。
前学年の教科書やドリルから問題を見つけてもよいです。
学習量を増やすことで、それなりの学びへの耐久力を育てます。


五つ目は、子どもの好きなことから始めることです。


家庭でもそうですが、子どもたちの好きなところから始めるのがいいです。
大人は、どうしても基礎学習と考えて計算漢字が中心になります。
しかし、子どもたちの好きなことは違っています。
読書するのが好き、声にだして音読するのが好き、草花の世話が好き、片づけ、整理整頓が好き、中には、掃除が好きという子もいました。教室中の拭き掃除をしていました。絵を書くのが好き、漫画を描くのが好きという子もいます。


かつて、勉強がきらいだけど漫画を書くのが好きという子どもがいました。
私は、その子に宿題として漫画を描くように伝えました。次のようなことを伝えました。
「あなたの漫画で、この教室をうめつくしてごらん」
この提言に対して、その子は意気に感じたようでした。
親からは、「漫画ばかりをかいていないで勉強しなさい」といわれ続けてきたということですので、私の提案に驚いていました。


彼は、毎日、画用紙に漫画を描いて提出しまた。私は、その絵を自分の掲示したいところにはらせました。やがて、教室中、漫画で溢れました。
だいたいいっぱいになったときに、そのことをもとにして他の子どもたちも加えて道徳の授業をしました。


絵を描き切った彼に対して、子どもたちはいろいろな意見をだし合っていました。
彼が一つのことに取り組んでいる姿が素敵だと伝え合っていました。その時の真剣な顔を目に入れた子どもたちは、友達を通して、夢中になることを学びました。
私は彼に「あなたは一つのことにこれだけ自分の力を出し切れる人なんだよ。すごいねえ。」と伝えました。
やがて、彼は自分の好きな教科に取り組み始めました。
実は、彼は、学級をかき回していた中心人物でした。


勉強を好きにさせる場合、嫌いな教科よりも好きな教科をとことんさせてみることで、やがて、嫌いな教科に取り組み始めることもあります。
子どものマイナスを埋めるのではなく、プラスのことで子どもと先生がつき合ようにするといいです。


家庭においては、子どもの好きなこと(ゲームは別として)を一緒に見つけて、その環境を作ってあげることが大切だと考えます。
学びは机上だけにあるものではありません。


共に微笑みを浮かべている母と子。
「お母さん、見て、この花きれいだね」と感動している子どもに共感するお母さん、すてきだなあと思います。
人と人とのつながりも共感しあうことから始まります。
だから、学校においても、掃除でもなんでもいいから、一緒に活動できることをして子どもたちと親しくなれたような気がします。


学習においても、教える・・・教えられる立場ではなく、共に学び合える関係をつくると子どもたちは意欲的になるようです。
時間をかけて子どもに働きかけることで、やがて、子どもに働きかけられるようになります。


ただ注意しなければならないのは、今の社会がデジタル化しているので、「こうすればこうなる」と考えて実行するとうなくいかないことが多いです。
子どもとの関係はアナログの関係がいいです。
こうすればこうならないと思えるようになり、再び、はたらきかけることができるようにします。

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