教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 225回 森信三先生から学ぶ その2 「足元の紙屑一つ拾えぬ」「 音をたてないように歩く」

「足元の紙屑一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。人の風上に立つなどおこがましい」(森信三先生)


 耳が痛いです。生まれてからこのかた、すべてにおいてできたかといえば「ノー」ですね。
 しかし、先生になってからは、挨拶とともに特に気をつけて実践してきたことです。


 教室でゴミが落ちていたら「そのごみを拾いなさい」と子どもに指示するのではなく、どんなに遠くでも自分が目にしたごみは必ず自分で処理するようにしました。


 休憩時間終了後、教室に入るとき、時々ポールが転がったままになっています。「職員室から生徒指導の先生が「ブランコの前にあるボールをもって入りなさい」と放送で指示します。
子どもたちは、それを聞いて口々に言います。「先生が一番先に見つけたんだから先生が、かたづければいいのでは」と不満顔に言います。
ボールはごみではありませんが、先生が気づいたことは率先して実行する必要がありますね。


教室で子どもの机のそばにゴミが落ちているとき「机の横のごみを拾いなさい。」と指示することがありますが、先生が黙って近づいてごみを拾うのとでは、子どもにとって受け取り方がどのように違ってくるでしょうか。


このような小さなこと(気づき→実行)が先生の仕事に大きく影響してきます。
子どもたちをあごで動かさないようにします。清掃でも挨拶でも、先生から自主的に事をおこしていきます。
それだけで学級の子どもたちの心は変化していきます。ただし、子どもを変えようとわざとらしく実行したのでは、すぐに子どもたちは先生の下心に気づきますので逆効果です。
先生自身、人間として少しでも成長していこうとする過程です。下心は禁物ですね。下心ではなく真心です。


「廊下や階段を音をたてないように歩く。ほかの修行ができなくても、これだけのことを守るだけで、どこか人間が違ってきます。」(森信三先生)


廊下や教室で女の先生がヒールをはいて歩いておられます。かなり大きな音です。子どもたちが学習しているそばを机間巡視のために歩かれるときの音、子どもたちの集中を阻害していることにお気づきでしょうか。


また、これは音ではありませんが、まれに、教室に入ったとたんに、先生の香水が強く香っていることがあります。これは、子どもたちにとってどうでしょうか。きっといやな子どももいるはずです。


 周りへの気遣いの問題です。
 朝、職員室の朝礼が終わり教室に入ります。
 子どもたちは、朝の会をしています。
 私は、そっと入室します。できれば後ろから入るようにします。この気遣いが子どもに乗り移っていきます。


そして、朝の会が終了したら、まず、最初に離すことは、「○○くん、もう風邪はだいじょうぶかな」と昨日の欠席者、体調不良であった子どもに声をかけるようにします。
これも気遣いです。気配りですね。

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