教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 345回 挙手発言は、挙手しない子を大切に

全体学習において、子どもたちに発言を求めるとき、その方法は、大きくは3つに分かれます。
挙手発言と指名発言、そして自由発言(つぶやきも含む)です。


挙手発言では、発問、質問に対して、挙手で解答を求め、正解を得て進行します。
挙手発言で指名して子どもが発表するとき、先生は、「私が求めている答えを言ってくれた」「期待どおりの答えを発表してくれた」という話を聞きます。
「・・・してくれた」としいう先生の気持はわかりますが、誰のための発言なのでしょうか。


私は、いつも自分の母親が「・・してくれてうれしいよ」と言われたとき、「お母さんのためにしたのではない」と心の中で抵抗していました。
世の中の指導者のコメントのなかにも見られます。
高校野球で優勝した監督のコメントが「選手たちは、ここまでよく頑張ってくれました」とありますが、選手たちへの感謝の意味も込められているのでしょう。
しかし、私が監督だったら「優勝をめざして、選手たちは頑張りました。彼ら努力の賜物です」と語ると思います。
指導者は、あくまで黒子なのです。舞台の上に上がってはいけないと思ってきました。


全体学習での発言に戻します。
挙手した子どもが発言をしたときの先生の対応です-
一人ひとりに向かって、まなざしを共有しながら聞くことは大切です。
問題は、そのあとに、「そうかなあ、他に意見はないですか」と言うとき、先生の中に子どもを置き去りにしている気持ちが見えます。
自分の期待する意見がでるまで指名します。


誤答だった子どもの扱い方です。
誤答も意見です。いや、誤答こそ貴重な意見です。
その子の大切な考えです。
「どうしてそのように考えたのかな」と、その子に寄り添っていきます。ですから、子どもたちの発言を正誤で分けるのではなく、子どもの考え方とその根拠に耳を傾けるようにします。


授業参観しているとよくわかるのですが、一人の子どもが発言し終わったあと、だれの顔を見ているかを観察してください。ほとんどが先生の顔をちらっと見ています。
低学年では仕方がないことですが、高学年でその様子が見られると、だれのための授業だろうかと首を傾げたくなります。


挙手発言を求めるなら、挙手していない子どもこそ指導者の気がかりのはずです。
わかっていけど挙手できないのか、それとも、わからないからできないのかが気になるところです。


そこで、指名発言を実施します。
挙手発言を求めても、必要において、特定の子どもを指名します。
子どもが「ちょっとわからないです」と言ったとき、「それは素晴らしい発言ですね」
「わかったことを発言するよりも、わからないことを発言するほうが難しいですね。でも、学ぶというのは、わからないとはっきりさせるのがスタートラインに立つことです。


挙手発言は、挙手しない、できない子を確かめるのがねらいです。

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