教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1121回 なぜ指導、言葉かけなのか

現場の先生とお話していると
どんな言葉かけをしたらいいですか。
どのように指導すればいいですか。
大抵は方法論についての質問が多い。


それよりも先生はもう少し踏み込んで考えなければならない。
目の前の子供に、なぜ、言葉かけをするのか。
言葉かけをするねらいは何か。
言葉をかけない沈黙ではだめか。
言葉で注意するよりも沈黙で示唆することもある。


先生の言葉は、どのような気持からでているのか。
目の前の子供をどうしたいのか。
どのような子供になってほしいのか。
言葉にどのような願いをこめて子供に発信するのか。


子供は、先生の言葉からどのような願いを汲み取るのか。
言葉は具体的な手段ではあるが真実から離れがちである。
お互いの心、気持は見えない。
見えないものを具体的な言葉という列車にのせて子供へと向かわせる。


言葉どおりに伝わることはない。
常に、先生と子供との間には微妙なずれ、誤解があることを承知しておく必要がある。


どのように指導すればいいか。
そこにも、まず、先生の子供への願いが根底にある。
なぜ、指導しなければならないのか。
指導しなくてもやがて本人が気付くことはないのか。
「教える」よりも「気づき」のほうが子供の主体性を養う。


指導とは、子供の生きる道、学びの道をつくることである。
子供がその道の先を見通せるようにしたい。
先生は、子供たちより少しだけ、人生の道を先に進んでいるのだから。
子供が先生のお尻にくっついて歩くのではない。


先生を追い越して、自分で前に進めるようにすることが指導である。
その時に、先生は予想していた以上の子供たちを発見することになる。

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