教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 288回 授業 能力差あっても 意欲差なし

授業を子どもたちの「ものの考え方」や「意欲」と切り離して考えることはできないことは今までお話してきました。
「考える」は頭とするなら「意欲」は心です。
考えることを通して意欲を膨らませることもあるし、意欲(好奇心)があって考えが進むこともあります。
意欲とは感動です。
感動があるとき、子どもたちは、主体的に学びモードに入ります。


さらに、授業をしていると、子どもたちの認識の違いが、家庭生活体験や家庭環境に左右されていることがわかります。
自然環境が豊かな子どもとそうだない子どもでは、理科の学習において違いがあります。
幼い時から読み聞かせをしている家庭と本に接することが少なかった子どもとの国語の読み取り学習は違ってきます。
学校でいえば、街の中の学校と農村の学校では体験が明らかに違っています。
子どもたちの生き方や考え方を大切にして、教科の独自な活動の中に活かしていくことが大切です。


私は、授業実践の時に次の4つのことを大切にしてきました。
一つ目は、子どもを主体として、自らの問いをだして前向きに探求していく過程を大切にしました。
自問自答の世界です。
教えることが子どもを前から引率することならば、横から後ろから子どもの活動をサポートします。子どもたちの学びに寄り添っていきます。
そのためには、独り学習(一人ではなく独り)の時間を多くとります。


学びとは、本来は独りのものです。集団の話し合いが目立つので、研究会において、よく話題に上がりますが、集団による話し合いは、独りの思考を広げたり深めたりするためのものです。


二つ目は、子どもたちの認識(気づき、考え、感じ方等)を一人ではなく集団と関わらせることで、より豊かな認識、学びの過程をたどらせます。
もちろん、前提として、独自思考を出発とするのはいうまでもありません。
子どもたちが集団思考に参加できる喜びをもつと、学ぶ姿勢が変化します。
したがって、子どもたち一人ひとりを話し合いに参加させるようにします。


三つめは、できる子を中心から脱却して、すべての子どもとのかかわりを重視します。
授業参観しているときに、いつも、「この先生はどの子どもたちを相手にして授業をされているのか」ということが気になります。
教材を流すには、できる子、挙手する子を指名すればいいです。
そして「みんなもわかったでしょ」と決め台詞を言えばいいのです。
先生の「わかったでしょ」という言葉は、ピストルを突き付けられているように感じる子どももいます。


そこで、挙手している子どもだけで授業を進めないようにします。
自分の反省として、今日の授業は何人の子どもで進めたのかを振り返ります。
だれもが学習に参加しているという所属感、参加できるという有能感を味わえるようにします。これはとても難しいことですが、達成できるかどうかではなく、実践者としてその姿勢を崩さないことです。


四つ目は、知的好奇心を刺激し、学力低位の子どもが進んで参加できるようにします。


能力差はあっても学習意欲をそろえるようにします。


「知的好奇心の刺激」は、教材のどこを見せるか、どの入口から入らせるかです。
山登りのとき、登山口をどこにするか、どのようなコースにするかを考えます。
発芽の勉強を始めるとき、子どもたちの体験やすでに持っている認識をひっくり返すようにします。
「意外性」を与えます。
「この種、生きていますか、死んでいますか」と問いかけます。
その理由を出し合い、子どもたちは話し合いを始めます。


「冬の生き物」の学習があります。
それぞれの生き物の冬の過ごし方を観察して、理解させる学習です。
そうではなく、最初に、子どもたちに次のように語りかけます。
「生き物にとっては、生きるか死ぬかの命がけの季節だよ。生き物は、どのようにして命を守ろうとしていますか」
そのことを観察させます。命の学習です。

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