教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 287回 授業 子どもの学びと意欲を把握するために

れについては、先生方はいろいろと工夫されておられると思いますので、ここでは、私がしてきたことについてお話します。


前もってお断りしますが、教育技術はその人の子どもとの取り組みから生じるものであり、その場においてしか通用しないものも多くあります。
だから、参考書の技術において、最初は借りてきたものであっても、先生自身の土壌の上で根付かせる必要があります。
生け花として挿しているのではなく、自分の土の中で発根できるように育てます。


根付かせるとは、目の前の子どもたちに応じて修正、追加していくことです。その時に、うまくいかないなあとか、えっ、思ったよりも子どもの中に入ったぞという感覚を持つようになります。


さて、授業に戻ります。
4月の最初の授業、初日の授業の時の子供たちの眼差しを思い出してみてください。
どの子も先生に視線を送っています。
どんな先生かなという期待と不安の眼差し。
厳しいかな、ついていけるかなという眼差し。
新しい先生との勉強、楽しみだという眼差し。
それらの眼差しで子どもたちの気持が眼光を通して伝わってきます。


ところが一週間がすぎると、一部の子供たちとの眼差しを共有できなくなることがあります。退屈したのか、期待外れだったのか、失望なのか、授業に対する意欲が小さくなってきます。


したがって、授業の中で、子どもたちとどれくらい眼差しを共有できるかが自分の授業の評価になります。
子どもたちは先生に対して目で語ります。
したがって、先生も目で語れるようにします。


授業開始、子どもたちの前に立ったときの眼差し。
最初の発問をしたときの子どもたちの眼差し。
授業が展開していくときの子どもたちの表情を察知します。
「わかったかな」「楽しかったかな」「わからないことはないかな」などの言葉ではなく、子どもたちの目を中心とした表情が語ってくれているものを大切にします。


子どもたちに考えさせる場面。
課題をだします。ノートに書いて考えさせます。
その時に、いち早く筆を走らせる子ども、筆をとっても一向に動かない子どもを見つけます。そして、動かない子どもの前に出向いて、「こんなことから考えてみては」というように、考える入口をヒントとして助言します。


子どもたちによっては、「先生、考えてみてもわかりません」という言葉がでます。
その時に「えらいねえ、わからないことがわかったのは、あなたが考えたからだよ。もう少し、わからないことを広げてごらんなさい」という助言をします。
そうなのです。
わからないところをなくすのではなく、「わからないところを広げる」という助言が、子どもを安心させ、自分のわからなさを見つけようとする姿勢を生み出します。


「わからないところがどこか」がわかる授業が、子どもに寄り添った授業です。


子どもたちに授業の中でノートに書いて考えさせる場面が多くあります。
私は、その時の子どもたちの鉛筆を走らせる音が好きでした。
全員が集中しているときの音、沈黙の中で走る筆記用具の音、ここに意欲の増幅を感じます。


先生が子どもたちに質問することがありますね。
質問した時、手を挙げて目を輝かせる子どもがいますが、それとは対照的に、私との視線を外す子どもがいます。


私の授業の相手は、視線を外した不安な子どもです。
その子に「わからないのかな」とたずねてはいけません。
不安を広げてしまいます。
その時は
「今の先生の質問、少しわかりづらかったかもしれないので、もう一度、説明の言葉を変えて話します。」と全体に伝えます。
そのあと、私との視線を外したときの子どもを見ます。
視線があうことを確認します。


子どもの理解と意欲を覗きながら、伺いながら授業を進めていきます。
そこに、最初の指導展開の修正を余儀なくされることも多いですね。
私は、子どもたちによって修正されることが楽しい人間でした。
子どもたちが授業者を育ててくれているからです。
患者が医者を育てるように。

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