教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 96回  言葉が先行しすぎる 先生の指導

子ども同士で成長できる集団とはどういうことをさすのでしょうか。
お互いに支え合っていく集団、切磋琢磨していく集団、お互いのあり方を受け入れていく、認め合っていく集団、厳しく指摘しあっていく集団、お互いの良さを学び合っていく集団・・・いろいろありますね。


先生サイドから見てみましょう。
「みんななかよくしましょうね」「困っている人がいたらたすけあいましょうね」「先生は何回もみんなに言っているでしょ」「みんなのいいところをまなびあうのですよ」・・・


先生は、いつも言葉で子どもを追いつめていきます。


だから、子どもは追いつめられたら、「お年寄りには易しくするのですよ」「はい、わかりました、先生。」という答えが多くなってきます。「みんなで助け合っていくのですよ。」と言われれば「わかりました」と答えます。


 つまるところ、指導というのは、
   口先で子どもに押しつける。
       何回も何回も口うるさく言う。
 結果的には、「何回言ったらわかるのよ」と、先生がキレルことになります。
そうなのです。感情の露呈です。目はつり上がり、口はへの字でしかめっ面になります。(ほとんどの先生は違いますよ)


やがて、先生の口から飛び出す白旗宣言。
 「この学級は特別な子が多いのですよ」
決して先生自身が自分を特別だとは言いません。
周囲を特別にすることで、自分はノーマルであると主張します。
家庭でもおこりうることですね。


よく、研修会で話題になることがあります。「このような場合には、どのような言葉かけをすればいいのでしょうか」
言葉をかけても子どもの中にしみこむことはありません。
言葉をかけるのではなく、先生のその子を気遣う気持ち、やさしい心をかけることなのです。そのための言葉であったり、スキンシップであったりします。
あまりにも言葉が魔法の言葉のようにとらえられています。


魔法の言葉はありませんが、魔法の言葉になることはあります。


子どもたちに問題行動がおきると先生がよく使われる言葉があります。
「その件については、日頃、指導していたのですが・・・」という言い訳です。
「してはいけません」という指示であって、よくなるように導く指導ではありません。
自分が指導できていなかったことを認め、次の対策を考えていけばいいことです。うまくいかないことのほうが多いのですから、次の対策を立てたらいいです。
そうでないと、子どもたちは、先生の前から遠ざかっていきます。



 どうして言葉が多くなるのでしょうか。
 それは、楽だからです。
 言葉かけは、口だけを動かしたらいいからです。
 口では、子どもたちを感化できません。
 できるのは、先生自身の行動です。
 子どもたちの先頭をきって体を動かすことです。
 先生のヘッドシップです。

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