教育随想 927回 子どもと仲良くなりたいなら「へつらうな」
道の駅に小学生を乗せた観光バスが入っていました。
低学年ぐらいの子どもたちです。
トイレ休憩のために道の駅に駐車しているのでしょう。
私が車から降りると、私に向かって数人の子どもたちが窓越しに手を振っています。
顔をくちゃくちゃにしながら私に向かって合図を送っています。
私も笑顔で手を振って応えました。
私との面識はありません。
その表情にくったくのないかわいらしさを感じました。
その子どもたちは、自分と相手との間に境界線をつくっていません。
自分の世界をとびだして、相手の大人と心をつなぐことができるようです。
見ず知らずの人に手を振ったら、相手は自分を変な人とだと思われないかという気持ちがありません。
バスの中の子どもたちの笑顔に元気をもらって、何か、心が軽くなったように思えました。
感謝ですね。
緑道を歩いていると、自転車に乗った中学年ぐらいの子ども、数人がかなりのスピードをだして、私の横を走り抜けていきました。
あぶないなあと少しいらつきました。
どうして緑道を自転車で走るんだという腹立ちもありました。
かわいくないですねえ。
止めて注意したほうかいいのかと思ったりもしましたが、見知らぬおじさんに注意を受けると、楽しんでいる自転車乗りを壊してしまうかもしれないと考えると引いてしまいます。
大人の縮小ではない子ども。
子どもは大人とは違う感覚と宇宙観をもって生きています。
大人の感覚で子どもを判断すると子どもを見失うことになります。
子どもの行動は、大人である我々が歩いてきた道です。
子どもは優しい面もありますが、とても刹那的な面もあります。
そして、大人以上に残虐な面を持っています。
子どもとできれば仲良くしたいものです。
彼らとの距離を少しでも縮めたいと思っています。
しかし、子どもとの距離を縮めるといっても、そう簡単なものではないですね。
子どもに好かれたいと思いすぎると、子どもに迎合してしまいます。
子どもの言いなりになってしまってはだめです。
言いなりになることは、子どもに束縛されることです。
仲良くなるために、先生が子どもにへつらうことです。。
子どもは、言いなりになる大人を心では見下げています。
子どもとの距離を縮めるというのは、決して、子どもの人気とりではありません。
先生や親の方針はあまりぶれないほうがいいでしょうね。
ぶれてしまうと、子どもからみると頼りない大人にうつってしまいます。
おじいさんやおばあさんが孫がかわいくて、孫の言うことを何でも聞いている場面に
出会うことがあります。
気持ちはわかります。
子どもたちに与えること、特に金品などを与えることで、子どもたちに好かれたいと思うことはあります。
その瞬間の子どもの笑顔を見たいばかりにそうすることが重なっていきます。
子どもたちからすると、そのような大人は、尊敬の対象にはならないようです。
大人と子ども 先生と児童、親と子・・・お互いに束縛し合って生きています。
これを「絆(きずな)」といいます。