教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想925回 担任になっても 先生にはなれない

担任になると、子どもの前に立つだけで、子どもたちは先生の話を聞きます。
先生の指示にそれなりに従います。
子どもとの交際歴は初日のわずか1日だけなのに。
お互いの親密度は0に近いです。
もちろん、担任が代わったというだけで寄ってくる子どもたちはいます。
しかし、子どもたちにとっては、先生という肩書がなければ、ただのおじさん、おばさんにすぎません。


先生が新しく学級の担任になります。
「最初が肝心だ。だれが先生かを子どもに理解させなければならない」と言われた先生がおられました。威厳をもって先生の指示に従わせる方針をたてて指導にあたられていました。
これも先生の一つの生き方でしょう。
ただ、一年間の子どもたちは伸び悩むことになります。
学級を維持管理するだけで終わることになります。


担任発表のとき、子どもたちの表情はとてもおもしろいですね。
まるで先生の人気投票です。
若い先生、やさしい先生は人気があるようです。
年齢を重ねるたびに、ちょっぴり寂しい感じもしました。


担任の先生になっても、子どもたちの先生にはなりません。
ただ、その教室の所属、担当になったというだけです。
先生にとっては、新しい子どもたちと同じで新入生です。
子どもたちが一日目なら先生も一日目の担任の先生です。
子どもたちと共に過ごす時間とともに担任1か月、2か月の先生となります。


だから、すぐには、子どもたちの「ぼくの先生」「わたしの先生」にはなりえません。
ここが誤解を生むことになります。
初日から「私は先生だ」と強権発動される先生もいます。
担任の先生になると、いきなり「私は、あなたたちの担任だ」という顔で、子どもたちを上から目線で指示し始めます。
お互いが理解しあい親しくなっていくには、それなりの時間が必要です。



どんなにベテランの先生も、子どもたちの前では新任の先生です。
そして、人間同士の分かりあいから始まるのが新学期です。


初めて行った病院、診察してくださった医者。
一日目から担当医であっても「私の医者、先生」ではありません。
近所に何年も通っているホームドクターがいますが、私の体や健康状態を理解してくださっています。
検査の数値だけで一律に判断されずに、あくまでも目の前の私の状態を診察して治療や保健指導をしてくださっています。
まさに「私の医者、先生」なのです。


担任の先生も同じことです。
子どもたちのことを理解し、心を通わせるなかで、子どもにとっての本当の先生になっていきます。
一人ひとりの子どもたちに心を寄せ、心を通わせ、心をつないでいく過程が一年間の歩みです。
そして、先生が子どもたちを育てる、指導するというのではなく、育てさせていただくという感謝の気持ちこそ必要だと思います。
子どもあっての先生です。
子どもたちが先生を育てます。
子どもたちが担任を先生にしてくれるのですね。


今年は、どんな子どもたちが私を育ててくれるか楽しみにします。
最初は、ただのおじさんです。
先生という肩書を与えてくれるのは、子どもたちです。
「ぼくの先生だ」と感じられるような指導をしていきます。
ゆっくりと始めればいいのです。

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