教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想  923回 よい子って どんな子かな

「よい子であれば好かれる」「勉強ができたら愛される」「完璧に物事をこなせば非難されることはない」と、ひたすら思って生きている子どもがいます。
もっと、自分の本当の思いをだせばいいのにと思います。
何でも大人の言われたとおりやってみようとする子がいます。
表情は硬いです。
どことなくまわりの友達の表情を気にしながら行動しています。
眼球の動きに落ち着きがありません。
目の周りの筋肉が固いです。


「よい子ね」「まじめな子ね」といわれ続けてきた子どもたちがいます。
幼いときから、自分をしっかり表現してこなかったようです。
自分の思いがあっても抑えて、親や大人に好かれることを優先してきました。


成長するにつれて、親の言いなりになることに怒りを感じるのですが、ぐっと抑えています。
見放されるのが怖いからです。
不安でたまらないのです。


学級の子どもたちの中にもいます。
先生から見放されまいとして、自分の気持ちとは真逆のことをします。
先生も親も「素直なよい子ね」とほめます。


そのような子どもたちは、人に好かれることで安心を得ます。
周りから好かれないことを極度に恐れているように思えます。
まじめで、素直でよい子、そして、がんばりやです。
常に、周りの大人から好評価を得るように行動しています。


先生や親に対して、いつもよい感情をもってもらおうとしています。
やがて、外にだす自分と内に秘めた自分とのギャップが大きくなっていきます。


やがては、燃え尽き症候群の様相を呈してきます。
子どもたちは、親や先生とのつながりのなかで、自分のあるべき姿を見出してきます。
しかし、あまりにも自分を消して周りに波長を合わせるようになると、やがて、「ぼくはだれだ」と、自分に問い返します。


自分を確認する時がきます。
さもないと自分自身が透明な存在になることがあります。
子どもたちのよい子の部分、「陽」の部分だけを認めたり受け入れたりするのではなく、自分の「陰」の部分も受け止めていくことが大切です。


親や先生の子どもに対する願いや期待が大きすぎると、子どもは、本来の自分と周囲の期待との間の板挟みになってしまいます。
おおげさに子どもたちを誉めない。
大人の期待は最小限にしておく。


子どもの姿を見ていると親や先生の願いや期待が見えてくるものです。
子どもらしさは自分らしさです。
あるがままの子どもの姿、野生に戻る姿を大切にします。


ちなみに、先生が子どもに好かれることは、よい面もありますが、反対に、子どもを束縛していることもあります。
先生に反抗している子どものほうが自分を解放しています。

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