教育随想 921回 役割的人間関係から 教育的人間関係へ
先生として自分は成長したと自負することがあります。
これだけ頑張ったのだからそれなりに成長しているはずだと思うことがあります。
「教育は人間だ」と思いながら、その「人間」を子どもたちにすり替えていることがあります。
その人間とは「自分自身」であることは明らかです。
先生が、教員として、教師として成長、変革していかなければ、子どもに指示ができても育てることはできません。
子どもは先生の鏡です。
子どもは先生の行動、言葉を映し出しています。
このあたりの自覚が難しいです。
他の学級の子どもたちの振る舞いを見ていると、1年もたつと担任の振る舞いに似ている子が多くなっています。
子どもは、先生の背中から学んでいます。
先生の意図しないところで学ぶものです。
言葉遣い、歩き方、給食の食べ方、服の着こなし、文字のくせ等、どこかに担任の姿が見られます。
子どもの姿を見れば、親の姿がわかるといいます。
子どもの成長は先生の人間的な成長と密接につながっています。
わかっているけどうまくできないことが多いです。
子どもに対する人間教育を謳うなら先生の人間教育も不可欠ですね。
人間ではなく、工業製品なら、技術があれば同じものを生産できます。
人間は物ではなく者です。
このように言うと難しいことだと考えがちですが、そうでもないです。
一人の人間としての日常生活を大切にすればいいです。
衣食住を通して、自分を磨いていけばいいです。
たえず、自分が動いた後を振り返り、整えるようにします。
教育という仕事は、単なる手段・方法・技法で学級や子どもを変えることは不可能であると考えてきました。
人間関係が土台となって展開される仕事です。
その人間関係には、大きく分けて二つあると考えられます。
役割的人間関係
親と子、先生と子ども、上司と部下等の関係維持。
教育的人間関係
信頼と尊敬によって支えられている関係。
教育的人間関係が土台となっている場合のみ子どもたちの変革は可能だと考えます。
永遠に未完に終わる教育の仕事ですが、自分の至らなさと真正面から向き合っていくしかないです。
指導者は、できる自覚よりも未熟な自覚を持ち続けるこどが大切だと考えてきました。