教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 917回  昨年度 何事もなかったように 新年度が始まる

今はコンピュータによる文書づくりが主流です。
かつては、本年度の成果、職員研修のあゆみと称して、分厚い印刷物を
刊行していました。


そこに書かれてあることと実際の子どもとは乖離していないのか。
まとめることで、そのあと、どれだけの先生が読み直されるのか。
来年度の計画は、まとめた冊子(成果)をもとにして実行されるのか。
それとも、昨年度の成果とは関係なく実施されるのか。
正直なところ疑問に思うことが多くありました。


卒業式の練習で最低限必要な指導は何でしょうか。
「式の進行に関すること」「全体の調子を合わせること」だけです。
ところが「ハイという返事」「立ったり座ったり」という日常茶飯事のことが繰り
されています。
一年生から六年生まで、発達段階に応じて指導されてきたことです。
にもかかわらず、多くの時間をさいて指導する必要があるのでしょうか。
卒業近くになって、まだ返事がしっかりできない事実。
立ったり座ったりが姿勢を正してできない事実。
それよりも、六年間が終わるその瞬間において、まだ、指導すべきことが残っているはずです。


集会活動において、本来、低学年のほうが行儀が悪く、高学年になるほど態度、返事、すべてがよくなるはずなのに、それかできないという事実。
清掃活動、学習活動においても一事が万事です。
そのことに疑問を持たない教育反省の不気味さ。


卒業を控えている子どもを見ると、どこに六年間の教育成果が表れているかを検証すべきです。
六年生は学校の顔といわれるならば、その顔を凝視すべきです。


学校社会は、時間だけで流れていきます。
昨年度は、何事も問題がなかったかのように新年度が始まります。
心を新たにして、多くの教育計画が職員会の場で提案されます。
どこに今までの(昨年度まで)実践の反省があるのか不思議ですね。
教育実践とは、うずたかく積み重なっていくものです。

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