教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想914回 慌てなくてもいいが、落ち着いてもいられない

教師の仕事から「一人ひとりの子どもの教育」という点を除けば、他の職業と同じようにその結果は見えます。
事務処理、報告、学校行事実践・・・。


しかし、子どもの教育については、明快な結果の判定は難しいですね。
ただ、親の側から見ても、職員側から見ても、子どもの側から見ても、教師としての資質、仕事の結果はみえみえです。


そもそも4月の学級、子どもたちのスタートラインがさまざまなので、3月に一定の水準に達していなくても逃げ道は開けます。
ここが企業の成果とは異なります。
あの子の場合は、「親が悪い」「家庭環境が悪い」「友達関係が悪い」で逃げられます。


新任の時ほど、自分の一年間の仕事に厳しい目を向けます。
しかし、3年、6年を過ぎていくと、自分の仕事に甘くなっていきます。
周りからベテランと呼ばれる域に達すると、それだけで自分の教育は素晴らしいのだと錯覚することもあります。
さらに、怖いのは、教員年数を重ねるほど、周りの職員からの助言や批判を受けることが少なくなります。


子どもや保護者からよい評価をされると、それだけで舞い上がってしまいます。
程度の差こそあれ、そのような評価は心地よいのも確かです。
ところが、教師の仕事については、厳しい目を向けることが少なくなりがちです。


学校において、お互いの実践を公開し、討論しあう雰囲気は消失しています。
だから、職員間のいじめがはびこることがあります。(一部において)
研修の場においては、同僚の実践を厳しく批判することができません。
人間関係に影響するかもという不安があるからです。
「切磋琢磨」いう言葉は、もはや学校には存在しません。


話は古くなりますが、私の新任の頃、私のラジオ体操を先輩の先生が見て言われました。
「子どもたちは、あなたのラジオ体操の動きを見てラジオ体操を覚えるのですよ。あなたは体操をもっと研究しなさい。」
その日から、毎日、放課後一週間、体操の特訓を受けたことがあります。
そのお陰で、子どもたちの前に堂々と立って体操をすることができました。
板書の文字、発問の仕方、教師の言葉かけ、評価の仕方など、いろいろと指導されました。
授業後の研究会もお互いの実践に対して、厳しい意見交換が行われました。
今思えば、そのことが私の教育実践の一部になっていきました。


しかしながら、今の学校においてはむずかしいことです。
だからこそ、自分の実践に対して自分が最も厳しく批判できる姿勢をもつことです。


慌てなくてもいいが、落ち着いてもいられないです。
本年度の反省を春休みにします。
新しい子どもたちと出会う前にしておきます。
それが迎える子どもたちに対する責任です。


次回は、反省の視点をまとめます。

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