教育随想 910回 授業者は子どもの中に 漂流する者
授業者は、子どもの前にたって指導することが多い。
「もう少し考えなさい」」
「このやり方は、こうすればいいよ」
指示と指導の連続。
教材という媒体を携えて、子どもに学ぶ意欲を育てる。
指導者は、指導案という教材に基づいて計画をたてる。
指導目標に子どもたちを向かわせるために、いくつかの指示をする。
時には、船の航海を司る船長のこどく先頭に立つこともある。
授業者には、いろいろな顔がある。
しかし、私は、授業者は、指導者ではなく漂流者だと考えてきた。
子どもの学びのなかに入り、子どもの考え方、つまずきに応じて動く。
「ここでは、この目標までたどり着かせたい」という先生の気持ちはわかる。
必要なことであるが、反面、そのことが授業者の動きを硬直させる。
最初に子どもありきである。
子どもの学びに対する気持ちを受信するレーダーになる。
不安、懐疑、ちらっと関心、意欲などを秘めている子どもの中に漂う。
漂うとは、子どもの姿勢に敏感になり共感することである。
子ども一人一人ではなく、A君、B君、C子・・・である。
個別の子どもの中に入って、自由自在に自分の気を動かしていく。
子どもの眼差し、顔面の表情、身体的動きを感じ取っていく。
そうすると、授業前に予想していたものとは違っていることが見えてくる。
このまま計画どおり進めてはならない。
指導計画の修正を余儀なくされる。
自分の指導案に固執することなく、漂流するなかで、指導案を再構築する。
そこに、漂流者としての面白さが生まれる。
まず、子どもである。
まず、授業者ではない。
授業者はどこまでも黒子である。
教育者は、子どもから目立ってはいけないものである。