教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 909回  寄り添う 見守る 傍観する

わたしと現場の先生との会話
「子どもに寄り添うことが大切だと思います」
「寄り添うとは、どういうことですか」
「子どもに近づいて、子どもの思いを聞くことだと考えます」
「子どもとの空間的距離を近づけることが寄り添うことですか」
「子どもに近づいて、子どもの話を聞かないと子どもの気持ちがわからないのですか」
「・・・・・」


寄り添うという言葉が具体的に何を意味しているか分かりません。
「相手の体にふれんばかりに近づく(新明解国語辞典)
「ぴったりとそばへ寄る」(大辞林)
 「そばによって離れないでいる」という意味が強いですね。


何をもって寄り添うのでしょうか。
言葉をかけるために寄り添う。
相手の話を聞くために寄り添う。
細かく教えるために寄り添う。
けがをさせないために寄り添う。


何をねらって寄り添うのか。
寄り添うという言葉だけが、心地よい言葉として使われています。


他にも、このような心地よい言葉で、何を具体的に意味しているかわからないものがあります。
心の教育 命の教育 ・・・などは最たるものでしょう。


実践家は、具体的に動くから実践家です。
抽象的な概念で教育を語るのではありません。
そんなことは、誰もがわかっていることなのに、どうして・・・・?


話を戻します。
寄り添うの反対にあるのが「見守る」です。
少し子どもとの距離をおいて、子どもの様子を見守ります。
気配り、心配りです。
見守るは、安易に子どもに近づくことではありません。
子どもを信じて待つという気持ちが根底にあります。。


さらに、私は、「傍観する」ことを入れていました。
傍観とは「何も手をださずに見ていること」
寄り添う、見守る、傍観・・・
先生方は、一年間、どれが一番多かったですか。


今は傍観するとき 今は見守るとき  今は寄り添うとき
この三つを区別します。
一年間のうちに変わります。

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