教育随想 860回 対話的学びと簡単に言うけれど
「対話的な学び」という言葉が学校の研修資料に多く見受けられる。
別に新しいことではないのに、表現を変えて、あたかも新しい試みであるかのように文字化されている。
対話とは、子どもたちがどうすることなのかは具体的に追求されていない。
二人の子どもが言葉を音声としてだしあっていることなのか。
もちろん、そうではない。
そもそも子どもたちは、相手と対話しているのだろうか。
ただ、自分の思いを一方的に発しているだけではないだろうか。
「うん、そうですが」とは頷いているふりをしているだけではないか。
相手が話している間に、次にどんなことを話すかを考えているのでは。
先生は、簡単に隣の人と話しなさいと指示して任せていることが多い。
何を解決するための対話なのかという目的意識が薄い。
目的意識をもって対話すれば、少しずつ盛り上がっていく。
言葉を通して相手の心の内にはいっていくことが対話ではないか。
あなたの中に入れなくても、言葉という架け橋の上であなたと立ち話をする。
対話することは、あなたと誤解しあいながら、お互いの共通の理解をめざす。
対話はキャッチボール。
投げるためには、まず、相手のボールを受け止めなければならない。
子どもたちは相手の考えを理解して応答しているのだろうか。
もし、理解しようとするなら、聞き返したり、聞きただしたりするはずだ。
相手にわかってほしいと思うなら、話す言葉に慎重さと熱意が込められる。
話し手は、聞き手に言葉を送り出すことに、ためらいをもつであろう。
対話とはあなたの思いと一つになること
あなたと私が一体になることである。
対話は聞き手のわかり方に配慮した、話し手の気遣いが大切である。