教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 845回 挫折した6年生の担任

勉強会の席で現場の先生から伺った話。
3年目の男の先生。
6年生を担任したいと校長に申し出て願いが叶う。
一学期、意気揚々と6年生の教室で指導された。
ところが、2学期になって休職された。


原因はよくわからないそうだが「うつ状態」にあるという。
3年目の先生が6年を担任して意欲満々であっただろう。
ただ、その先生の口から漏れ出た言葉「思うようにいかなかった」


学習指導も生徒指導もうまくいかなかったということだろうか。
はっきりしたことはわからない。
ただ、私なりに言えることは二つある。


低学年のように思い通りにならないのが高学年である。
低学年も本当は思い通りにならない。強制する力が指導者にあるだけ。
4年生以降、自我の発達が著しくなる。
まじめな先生は、自分の計画したことが子どもたちに浸透すると錯覚している。


人間が自分の意図どおりできるのは機械である。
機械は人間の意図に忠実に働かないと機械とは言えない。
スイッチを入れたら電化製品は動く。
車もアクセル、ブレーキ、ハンドルを操作することで思い通りの走行ができる。


しかし、人間はそうではない。
そこに教育の難しさと苦しさと楽しさがある。
時間をかけて、注意深く子どもを見守り、少しずつ彼との距離を縮めていく。
そこから子どもと先生との心の通い合いが始まる。
まじめな先生ほど壊れていく世界が教育である。
まじめを否定しているのではなく柔軟性が必要なのだ。
自分の基準を子どもにあてはめることはできない。


もう一つは、6年生の教科学習は難しい。
先生がそれぞれの教科に学問的な態度で学んでいるかどうかである。
教科書と指導書だけで子どもたちの前に立つと、子どもたちはすぐに先生の無知・無能を見抜く。
子どもたちのほうがよく知っていることが多い。
その内容を包括できるだけの先生の勉強が必要である。


算数は中学校の教科書ぐらいは再度学習しておく。
理科は、物理、化学、生物、地学の内容を中学校の教科書ぐらいの知識は必要である。
社会に至っては、歴史、地理、政治等の知識を学ぶ。
先生が社会人としての教養を身につけるようにする。
新聞(ネットニュース)に目を通す。
世の中の動きに敏感になる。
歴史は実地見学、資料収集に力を入れる。


国語はふだんから文芸に親しむ。
言葉に関する学習を深めておく。
漢字の読み、書き取り、四字熟語、故事成語、ことわざ等、できる限り知識を増やす。
そのことが子どもたちの学ぶ意欲を膨らませることになる。


おもしろいことに、このような学びの習慣は教壇から離れても続く。
教育は自己教育の一端だから。

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