教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 844回  子どもに発した言葉は先生に跳ね返ってくる

教育が語られる時、いつも話題になりすぐに通過してしまうことがある。
それは「教育は人間を育てることだ」「先生である前に人間だ」。
人格教育とうたわれながら教育目標は多くの先生の前を素通りしていく。
私は、子どもの前にたてるほどの人格者でも人間でもない。
子どもに人間的な成長を求めるなら、その言葉を自分自身に向けているだろうか。


具体的な話しに入る。
先生が子どもたちに常日頃、指示したり諭したり、あるいは叱ったりしている言葉を自分に向けてみる。
「もっと勉強をしなさい、頑張りなさい」
先生は、授業を含めた研修をしているのだろうか。
この授業のためにどれだけの研究をして教壇に立っているのか。


「もっと机や棚の中を整理しなさい」
先生は、自分の教卓の上は片付いているのか。
教卓の後ろの棚、引き出しは整理されているのか。
私は、後ろの棚の戸を外していた。
子どもたちに見えるようにしていた。(私が整理整頓が苦手だから)
私自身が自分の教卓の周りを整理していることで、子どもたちを刺激することになる。
ただし、刺激であって、「先生も片付けているでしょ」はだめ。(強制)


「友だちの話を聞きなさい」
先生は、どれだけ子どもの発言を途中で折らずに聞いているだろうか。
時には、途中で遮ることはないか。


「だらしのない服装はだめ」と言うなら
先生の身なりはどうだろうか。
綺麗な服を着るという意味ではない。
清潔で整っている服装である。
不潔なものは子どもたちを不愉快にさせる。
机間巡視するときには子どものそばに寄り添う。。
その時、私の汗臭さが気になることがある。
そのため夏は、着替えをロッカーに用意しておく。
体操服のかえは必要である。


細かいことを例としてだしたが、要するに、子どもを指導すると同時に自分自身を指導すること。
子どもと同時進行で自分を育てればよい。
子どもを指導する前には私にはできない。
子どもに指示、注意した言葉を自分に向ける習慣を身につければよい。
退職した今も同じことをしている私がある。
私のような人間が先生を続けることができたのも、子どもたちが私の鏡になってくれたおかげである。


「教育の真諦は自己を育てることにある。(シンタイ・究極の真理)
行ずるということは、自己を育てる最捷径(サイショウケイ・近道)である。
行のない所に真の教育はない。」

私の目標である芦田恵之助先生の「道と教育」の最初にある言葉である。

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