教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 828回  フィルターを通して見る 子ども

勉強会に来ておられる先生がなかよし学級を担任している。
私は、「なかよし学級のA君はどんな子ですか」と聞いた。
すると、先生は
情緒的障害のある子です。
自分のしたいことしかしません。
書くことが嫌で指示すると怒ります。
なかよしの勉強を速く終わらせて遊具であそぼうとします。
交流学級の友だちとは、気に入らないことがあると仲良しの教室に戻ってきます。


私は、その話を聞いて尋ねた。
「先生は、一人の子どもを紹介するときに、その子の問題点をいろいろ上げられました。でも、不思議なことですが、どうして、その子の良い点を挙げないのですか。」
障害に重点がおかれている。


このことは、職員室でも同じ。
「どんな子ですか」と尋ねると
学力の高い子は「まじめに勉強する子です」「宿題を忘れてことがないです」
ところが、学力がそれほど高くない子の場合は
「わがままですね」「口が悪いです」「友だちとよくけんかします」「忘れ物が多いです」・・・・。


第一声は、その子のマイナス点を出されることが多い。
私は、その先生に「2週間かけてA君のプラス点を10こ見つけてきてください。」とお願いした。
先生は困った顔をされたが、次の週にはA君の良い所を見つけてこられた。


さて、私たちは、子どもを評価する時に、良い点から入ることもあるが、多くは、その子の問題点から始まる。
先生は、常、日頃、子どもを観察するときに、批判的な目で見ている。
すでに、子どもを見る目にフイルターがかかっている。


「乱暴な子です」というフィルターをかけてしまうと、乱暴な面を言葉やしぐさ、友だちとの交流のなかで見い出そうとする。
フイルターをかけて見ることは、その子に「レッテルをはる」のと同じ。


なかよし学級の子は「障害をもっている」というレッテルをはって、そのフイルターを通して、その子を指導しようとする。
だから、本当にその子の本質が見えない。
私たちは、子どもに接するとき、心をニュートラルにしてそれぞれの子に接することが大切である。


先生は、今の学級の子どもについて、一人ずつの子に対して、良い所を5つ探せるだろうか。
マイナス面は自然と見えてくるが、プラス面を探ることは意外と難しい。

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