教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想814回 3年 国語 「ちいゃんのかげおくり」 指導その1

〇情景や登場人物の様子、心情、その変化について、叙述に基づいて想像することができる。
〇読み取ったことについて、友だちと感想や考えを出し合い、その相違について共有しあうことができる
物語文の学習において、読むことと共有し合うことが中心になってい
る。
ところが、読み取ることをワークシートに任せ、いきなり感想を子ども同士で
共有しあうパターンが多い。
「友だちと感想や考えを出し合う4」ためには、一人一人が作品に対して、自分なりの個性的な見解を持っていることが必要である。
「たのしかったね」「かわいそうだったね」と全文を深く読まなくても出てくるような感想を共有しあっている。


物語を読むことは、子どもが別世界の体験をすることである。
その世界において、今まで生きてきた子ども一人一人の人生を見直すこと
でもある。
さらに、主人公に心を寄せることは、他者の立場に自分の気持ちを移すこと
でもある。(思いやり・気遣い・共感)


教材について
「かげおくり」という遊びを題材にして、戦争の悲惨さ平和を願う作者の
思いが綴られた作品である。
本文は、五つのまとまりから構成されており、特に最後の「それから何十年」かたった町の様子は、現代に生きる私たちに平和の大切さと、それを守ることの大切さを示している。
  作者は、戦争の悲惨さや戦争反対を直接表現している作品ではないが
ちいちゃんの日常が壊されていく現実を描くことをとおして、戦争の残酷さ、痛ましさを訴えている作品である。
   子どもたちにとっては教科書で出あう初めての戦時状況下の文学作品である。
当時の時代背景を正確に把握することは難しいと思われる。
しかし、戦争に巻き込まれ幸せに生きることができなかったちいちゃんの行動を通して、戦争というものの非人間的な面を感じとることはできる。
  
一の場面と四場面とは対比されている。
一場面は、まだお父さんもお母さんも生きていて、家族が楽しくかげおくりをしている場面。
楽しくといっても、出征の前日、お父さんが明日から戦争に行かなければならないので、家族の切ない思いがこめられているかげおくりでもある。


四場面は、家族そろって仲良くかげおくりをしているような平和で明るい
イメージとして語られているが、それは、ちいちゃんの幻想である。
戦争で傷を負い、飢えて死んでいく間際のちいちゃんの幻想である。
最後に「小さな女の子の命が、空にきえました。」と知らされ、いっそう
切なく悲しいものになる。
明るいお花畑のイメージであればあるほど、逆に悲しみを訴える対比的な場面である。


  五場面では、何十年がたち、いっぱいの家も建ち、ちいちゃんがかげおくりをしたところは、小さな公園になっている。平和のイメージである。
しかし、そこには、ちいちゃんはいない。
ちいちゃんのしあわせもない。
戦争はただ命を奪うだけでなく、人間一人ひとりの、ありえたはずの、
可能なはずの幸せな未来を奪っていく。


 この作品で、もう一つ大切にしたいことがある。
それは、空襲の中を家族が来てくれることを信じて生きようとするちいちゃんの強さである。
おばさんについて行かないで一人で防空壕に残るちいちゃんの家族を信じる気持ちに心を打たれる。


このような戦争を題材とした作品において、学習前に戦争のビデオや画像を
視聴させる先生がおられる。
子どもたちが戦争を知らないので予備知識を入れたいと思われるのだろう。
しかし、そうすると、子どもが作品を読むときにフィルターがかかってしまう
「こわい」「ひどい」「おそろしい」というフィルターを通して作品を読んでしまうことになる。
指導者の戦争については、物語を読むにあたっての必要な言葉だけを教えるようにする。
あくまで、子どもたちがこの作品を通して何を感じとることができるか。
自分に引き寄せて考えることができるか。


ちいちゃんの体験」を通して、主人公に寄り添うことで、戦争がわかればよいのではないか。

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