教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 812回  教えながら育てる 育てながら教える

子どもたちに勉強を教えている時に先生方は気づいている。
教えるだけでは一方的である。
教えるだけに偏ると子どもたちは興味関心を失う。
教えながら育てることの大切さをほとんど先生は知っておられる。
教えることと育てることは同時である。


医者は言う。
患者に自分の病気を治したい、元気になりたいと思う気持ちがなければ治療は難しい。
だから、患者が病気をなおしたいと思うための見通し、手だてを教える。
患者自身に自分が健康になっていく道筋を明らかにする。
治療しながら患者に希望の心をもてるようにする。


教育も同じことが言える。
先生は学習を指導しながら、子ども一人一人の学ぶ意欲を育てる。
教えたあとに結果として学ぶ意欲が見られるのではない。
教えながら意欲を育てることである。
ここのところが大切。


漢字指導は、漢字を理解させることではあるが、同時に漢字に興味を持たせることでもある。
この二つのことは、同時進行になる。
先生が教えることは一時的部分的なものである。
育てた子どもの学ぶ意欲は、未来につながっていく。
先生から離れて一人歩きするのが学ぶ意欲、学びの主体性であり自立である。


計算指導をするときには、その子が計算好きになることがねらいである。
そのための指導方法を考えるのが教えることである。
理科でも社会などの他教科でも同じである。
月や星や生物が過ぎになってほしいという指導者の切なる願いがもとになる。
地域社会を好きになり大切にしたいという気持ちを育てるのが社会である。
高学年において、人間の営み、産業、歴史に目を向け愛おしくなれるようにすることが社会科の指導でもある。


何を教えるかの前に、何を子どものなかに育てるのかを考える。
育てたい目標のもとに教える。
それが教えながら育てることではないか。
この意識を授業者がもつだけで、授業は大きく変わる。
おのずから子ども中心の授業になっていく。

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