教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 801回  現場の実態からずれる 研究授業

全国研究発表大会 地域教育研修会での研究授業、そして、校内の研究授業発表会。
研究授業ははなくなることはない。


私は、現役の時に、全国、県内の研究会、研究授業に参加させてもらった。
時には、研究授業をさせていただいたこともある。
私が研究授業するときは、多くの小道具を使わない。
とってつけたような掲示物も使わない。
私にとっての研究授業は、「毎日行う授業の研究」である。
子どもの姿そのものを参観していただくのが私の研究従業であった。
研究授業というより「授業研究」である。


研究大会で、研究授業を拝見すると、教室全体を掲示物、小道具で埋め尽くされていることがある。
私たちは、こんになに研究したのですという意思が伝わってくる。
その努力には頭が下がる。
しかし、私が参観したいのは、授業者が育てた子どもたちだけである。
かつて私は、あとの授業反省会では発言したことがある。
「このような素晴らしい時間をかけて準備した授業、明日からの授業に使えますか」
研究授業お祭り大会ならわかる。
私は、研究授業を否定しているのではなく、普段の授業に実践可能なものに近づけたらよいと考える。


校内研修では、今でも、だれが研究授業をするか、美しい譲り合いがあるという。
「あなたは若いから勉強になるから授業してごらんなさい」という先輩諸氏の逃げ道。
私は、若い時に先輩に言ったことがある。
「まず、先輩が模範になる授業を私たち若い者に見せてくださいよ」
その時、嫌な顔をされたことがある。
研究授業が勉強になるのなら、全員の先生が実行すればいいはずである。
私が研修係の時、全員の先生に授業発表をしていだたいた。
巧い下手なんて関係ない。
授業で子どもたちと教材を駆使してどのように関わっているのか、その姿をお互いが参観するだけである。


意味のある授業研究は、日々の授業をどのように実践すべきか考えあうものである。

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