教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 797回  教育は 煩わしさが大切

煩わしいとは「処理がめんどうで不快に感じる様子。」
日常生活においては、ごはんを炊く煩わしさから炊飯器が誕生。
めんどうな掃き掃除から電気掃除機の誕生。
階段を歩く煩わしさからエスカレーターや動く歩道の誕生。
このようにして、人間は、諸々の煩わしさから解放されてきました。
便利さとは、煩わしさからの解放と言えるでしょう。


やっかいだと感ずる知的作業までもコンピュータに任せるようになりました。
それによって、企業の生産効率は上がりました。
日常生活においては、簡単な計算も計算機という便利なものに委ねることが多くなりました。


人間の脳をコンピュータに移すことになりました。
その結果、脳の機能の一部はますます低下してきたようです。


このようにして、教育からも「煩わしさ」を取り去ってきました。
ぶ厚い辞書や百科事典を開かなくても、コンピータの検索システムによって、簡単に知識を得ることができます。


今まで漢字や計算をノートに書いて学んでいたことを、コンピュータに任せることで「書く煩わしさ」から解放しようとしています。
学級新聞や掲示物もコンピュータに任せておけば、見栄えのするものに仕上がります。
色を塗ったり、切り貼りする手間はいりません。
まさに、学びの煩わしさからの解放ですね。


しかし、本当にそれでいいのでしょうか。
子どもたちは、学びにおいて、煩わしさを経験させることで、より人間的な勉強ができると考えます。
無駄な作業、手間のかかるノート書写、手書きでの計算があってこそ、子どもたちを成長させるはずです。
大人が、「子どもがめんどうだからいやや」といえば、簡単に、その煩わしさを抜こうとします。


IT教育は、教育方法の一部で、便利な面も多々あります。
しかしながら、失っていくものも多いのではないでしょうか。
IT教育によって、大切な煩わしさが失われます。
「手作り」という言葉がやがて死語になるかもしれません。
手作りの指導、手作りの診療、手作りの料理・・・。

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