教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想  788回  書き取りの学習が 手書きではなくコンピュータ

「6年生の夏休みの宿題すべてがコンピュータなんですよ」と先生の驚きの声。
疑問をもっていることがあるというので伺った。
「書き取りをノートにしないのですよ。画面に手でなぞり書きをすると、正解の文字が画面に浮かび上がるようになっています。はねる、とめるがいい加減でも正解の漢字が画面上に表れるのです。」
その先生は、ノートに書いて覚えるという指導方法をとってこられたので違和感をもっておられました。


コンピュータを活用した学習が多くなっています。
コンピュータを活用できる学習を模索しているようです。
無理にコンピュータを使わせているふしがあります。
新しい教育機器の導入のとき、過去何十年も前から同じことをします。
ところで、漢字をノートに一字一句、ていねいに書いて覚えることがいけないのでしょうか。


子どもたちが漢字を覚えるとき、漢字の音だけで漢字を覚えています。
音からどのような意味なのかを考えて、漢字を思い出していません。
「生活」という感じの音「セイカツ」を漢字になおしているにすぎません。
「セイカツ」という漢字を覚えるとき、「生きるの生」「活動するの活」という意味を考えていません。


手書きで漢字を書くことは、ボードに文字を打つこととは全く違うものです。
漢字の形を自分の手を使って再現するなかに、自然に体を通して漢字文化が入ります。
漢字は単なる記号ではありません。
そこに意味と過去の文化をもっています。
漢字を単なる記号として、概ねあっていればよいというものではないです。


かつて、小説家の浅田次郎さんが、手書きとコンピュータを使っての文章とは違うといわれていました。
どのように違うかと言われたら、私には答えられませんが、私は、二つを使い分けています。(その違いを見つけるために)
ノートに書くのは面倒だから、コンピュータのほうが速くて便利だと言われる方もいます。
そのことに反対するものではありません。
ただ、漢字は文化です。
文化は、歴史的に多くの人々によって引き継がれてきたものです。
私は、文字をノートに書くことの大切さを子どもたちに伝えたいと考えます。
さらに、付け加えると、教育は文化の継承です。
新しいからよいというものではありません。
不易流行

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