教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 768回 子どもたちを 静かに聞く子 にするには

水泳指導が始まった。
近所の学校からも水泳指導の声が聞こえてくる。
ところが不思議なことがあった。
プール内からの子どもの声が聞こえてこない。
プールの子どもの様子は、こちらからは見えない。


騒がしい先生の指導の声だけが15分間以上続いている。
スピーカーから流れる先生の声は、近隣の住宅地に響き渡る。
最初の水泳指導なのでていねいに指導されているらしい。
しかし、あまりにも事細かい指示が子どもたちの動きを封じている。
あれだけ指示・注意の連続であれば、子どもたちは主体的に学ぶことはない。
プールに入ることそのものが楽しい子どもたちにとっては生殺しである。


体育の鉄棒の指導。
子どもたちが鉄棒の前に一列になって座っている。
一人ずつ特定の技の練習をしている。
先生の指示の細かいこと。
しかも、子どもの数だけ同じ指示をだしている。
子どもたちは、主体的に自分の技を試行することができない。
子どもたちの運動量がたりていない。
子どもたちをロボットのごとく動かそうとしている先生。
要するに、子どもの学習なのに、先生だけの指示が目立っている。
そして、その声は騒がしいのである。


教室内の授業においても同じことをされているだろうと推測される。
先生は、声を張り上げて指導する。
子どもたちがざわついているから、さらに、声を大きくされている。
声を大きくしないと子どもが聞いてくれないと言われる。
逆である。
先生の声が大きいから、子どもは先生の話を聞かないのである。


教室内の静粛を得る道は、先生自身が静粛になることである。
静かに子どもたちに語りかける。
話すのではなく、しゃべるのでもなく語りかける。


語る時も、先生の動きは最小限にする。
おおげさな動作を慎む。
子どもたちは、先生の全体から静粛を学ぶからである。


さらに、もっとも大切なことがある。
先生の心が静粛になっていることである。
これは、難しい。
感情的になって話すこともある。
威圧的な話し方になることもある。
それでも、そんな自分の心の動きに気付いて冷静になる。
止水の面のようにとは言わない。
心を常に平静にする。(難しいのだが)


そのためには、先生自身が子どもたちに静かに語りかける。
子どもたちに言葉を落とすように話す。
眼差しを共有しながらゆったりと話す。
子どもたちのざわつきを押さえようとすると、先生もざわつく。


静かに語ると子どもたちも静かに語るようになる。
後ろに座っている子どもたちは言う。
「先生、もう少し大きな声で話してください」
みんなが静かになって、どのくらいの声だったら全員に伝わるか実験をする。
子どもたちは、自分たちがうるさいので聞き取れないことに改めて気づく。
やがて、子どもたちも静かに話すようになる。
一か月の時間を要する。


水泳指導、体育の指導も同じ。
できるだけゆったりと語りかける。
私は、教室の声も運動場の声も大きさはかわらなかった。
子どもに語る時は、子どもたちを引き寄せて話すからである。


指示をしたら、子どもが自由に自分を試せる時間を確保する。
主体的な学びを阻害しているのは、先生自身ではないか。
ちなみに、私は、体育の時、生涯、笛や太鼓を使わなかった。
騒がしい音で子どもを引き付けることを好まなかっただけである。

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