教育随想763回 先生というペルソナ
教師という肩書き、新卒の時には、この肩書きをどのように受け取っていただろうか。
先生としての自覚、まじめで人間的にも少しは成長していきたいと思った。
日々、自分を先生という仮面に近づけようと努力する毎日だった。
私が先生としての資質にかけるものが多かったからである。
常に、子どもたちから先生と呼ばれることの後ろめたさがあった。
大学を卒業して、2,3週間で「先生」と呼ばれることの違和感があった。
先生としての資格はない。
普通の大学生が教職についた途端、「先生、先生」と呼ばれることの恥ずかしさ。
ところが何十年も先生をしているうちに、先生という肩書きに酔いしれる。
子どもを自由に指導できる立場、一応保護者からは先生と呼ばれる地位。そして、実践の成果がでると、「すばらしい先生」という言葉。
自信と驕りだけが私にはりついてきた。
私は先生という肩書きの上にのっかかって日々を過ごす。
その心地良さを味わいながら過ごす。
ところが、先生の後半になって私の中で違和感をもつようになった。
先生の肩書きとともに歩いているうちに、私自身をどこかに置き忘れた。
先生と私とが少しずつ時間をかけて乖離してきた。
気が付いてみると、私は私を捨ててしまった。
だから、私を見つめることなく、先生としての私しか見つめない。
私のいない先生になっていた。
虚しさにさいなまれるようになった。
何をしても落ち着かない、自分を見失った私は、私の居場所をなくすこともあった。
肩書きは、それを通して自分自身をみがきあげていける。
退職後、私は、いっさいの肩書きがなくなる。
私だけを見つめて生きている。
本当にだめな人間である。
どんな時も私を置き去りにしてはいけない。
情けない私だと思いながらも、今も、私は自分と向きあっている。