教育随想 762回 指導マニュアルを疑う
子どもたちが自分自身をとても素敵な存在であると思うことは大切である。
しかし、「どうせぼくなんか」「ぼくはだめだよ」とつぶやく子どもも少ない。
大人が子どもをみる目が厳しすぎると、子どもたちなりの感情や考えが育ちにくくなっている。
厳しすぎると、現実の子どもに満足することなく、いつも不平不満をもらしておられる。
自分の思い通りにならないからだ。
子どものためとは言いながら、大人が求める子どもを養育しようと考えている。
「・・・のため」と言う言葉には、多分に指導者の欲が入っている。
しかし、子どものことに一生懸命になる気持ちは誰でも同じである。
公園などで、就学前の子どもたちを連れてお母さんたちが集まっている。
近所のお母さんが子どもの子どものことや家庭の愚痴を話されている。(散歩していると聞こえてくる)
一方では、他の子どもを見て自分の子どもを評価している。
お互いの子どもを見ながら、自分の子どもは発育が遅いとか早いとか比べる。
早いから安心、遅いから不安という気持ちになるのかも。
「競争」が始まってい。
暗黙のうちに、親同士の「子育て競争」が始まっている。
もちろん、そんなことはないという方も多い。
競争で問題になるのは、教育・子育てのマニュアル化である。
友達の子育て情報もマニュアルとして働く。
そのマニュアルに子どもをあてはめようとすると、現実の子どもが見えなくなる。
マニュアルは、決して標準化されたものではない。
百人の子どもには、百通りの養育・指導方法がある。
今、このブログで話していることも、その内容を目の前の子どもにあてはめてはいけない。。ちらっと聞き流していただいたほうがいい。
子どもを育てるヒントは、それぞれ育てられている子どもの中からしか生まれてこない。
先入観を小さくして、子どものシグナル、サインを受け止めていく。
うまくいかなければ修正すればいい。
足したり引いたりして「いい加減」の場合を見つけることが大切。
「いい加減」な教育をお勧めします。・・・いい湯加減
マニュアルは、どの分野でも必要である。
それは、誰でも同じ手順をふむことができる。
便利なものである。
しかし、それは、思考しないことでもある。(思考停止)
疑うことをしなくなる。
時には、マニュアルを疑うことが大切である。