教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 761回  学級が こわれる兆候

前回、学級そのものが成り立っていないことをお話しました。
今回は、崩壊の兆候としての事実について書きます。


子どもたちの中には、チャイムがなってもが着席しない子がいる。
先生は、着席するように指示、叱責をすることがある。
しかし、この事実は、次時の学習への興味関心がないともいえる。
子どもにとって、おもしろく楽しい学習であれば意欲的になる。
席につかないのは学習に対する関心、教師に対する反発


あるいは、先生に対する反発から不服従を態度で表すことがある。
先生を困らせることで、自己主張する。
彼らは、たえず、先生の視線を意識して動いている。
先生の不快な表情を見て、快感さえもつ。


不服従の場合、子どもが先生に対してSOSのサインをだしていることがある。
先生にかまってほしい気持ちが強く、ブラスで目立てない子は、負の行動をとる。
先生に手をかけさせる、世話をやかせることで自分の存在意識を保つ。
問題児のなかには、心の寂しさを伴っていることが多い。


もう一つの原因。
子どもが学級集団から疎外されている場合。
仲間の行動に同調しないことで、自分の存在を誇示する子。
学級集団において、孤立することを楽しんでいることさえある。


話を聞けない子。
これも学習に興味なし
さらには、先生への反発もある。
その反発は、先生に対する不信感からくることもある。
集団の信頼感が崩壊しているとき、お互いの話を聞かないことがある。


学級が形成されていない集団は、教室の整理整頓ができていない。
放課後、各教室を見回ってください。
それは、子どもの学級生活が顕著に表れている。


先生に対する反抗。
それは、先生という肩書と先生の人格とのずれからくる。
先生として子どもたちに指示することが、その先生自身もできていない時である。
「机のまわりをきれいにしなさい」と指示しながら、先生の教卓が一番乱れている。
その様子を子どもたちは毎日見ている。
先生の指示に従うだろうか。


「子どもにちゃんとしなさい」と言うなら、先生がちゃんとしていることが前提である。
そこまでできなくても、先生も自分の教卓を意識して片づける姿勢が必要。
子どもとともにできるようになればいいことである。


 私たちは,教室で,少なくとも二つの顔をもって生活している。
本来の自分の顔、先生としての顔。


ベテランになるほど、先生としての顔と自分の顔にずれをおこす。
理想の教師に向かって、自分を近づけていく営みが必要。
理想の自分に向かって、教師を近づけていく営みが必要。


子どもたちは、人間味のある先生を求めている。
完璧な先生をもとめていない。
「忘れてしまった」「知らなかった」と子どもたちの前で素直に認められる先生

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