教育随想 730回 野外観察 自然にせまるとは、自然を味わうこと
教科書のなかに「自然にせまる」という言葉がある。
「せまる」とは、対象との間隔がなくなって、もう少しでとどきそうになるとろまで近づくことである。
今では、生物の生態が映像で簡単に手に入れられる。
子どもたちは、映像によって生物教育がなされていることが多い。
子どもたちは、生物についての知識は豊かになっても、触れることが少ない。
教科書の生物の写真をノートに視写させるだけで終わる先生もいる。
有名な花見の観光地には多くの人が押し寄せる。
「いやされる」「きれいですね」とコメントをだしている。
しかし、どうなのだろうか。
自分の周囲、庭や道端の草花に心惹かれることがあるだろうか。
身近な自然を飛び越えて、名所に出かけているように思える。
まして、子どもたちが映像によって草花をとらえているとなれば、どこか違うようである。
私たちは、自然のど真ん中で生きている。
どこに立っても、そこは、自然のど真ん中である。
桜の花に隠れて、多くの野草がかわいい花を咲かせている。
さらに、言うならば、自然を目でとらえている。
自然を見た目でとらえている。
観察スケッチを見せてもらうと、その傾向が強い。
問題は、草花の観察に出かけても目だけを使って詳しく書かせている。
それは大切なことであるが、そこに欠けているものがある。
観察記録に、においがない、手触りがない。
そして、感動がない。
草花に十分ふれる活動が少ない。
植物の生きる姿を五感で感じ取ることが少なくなっている。
花を見たり、香りをかいだり、葉にふれたり、葉音を聞いたりすることが少なくなっている実態がある。
そのような中で、野外観察に連れて行っても、子どもたちは、義務的に観察スケッチの用紙に絵を書いたり文章をつづるだけである。
「自然にせまる」と同時に「自然を味わう」という姿勢を育てたい。
人間は、すでに自然の中にいる、包まれている存在であるということに気づかせたい。
植物も動物も、私たちと同じ生き物であり、基本的には同じ仕組みで生きている
動植物は、逆境のなかで耐え、その逆境を跳ね返して生きる知恵を身につけている。
草花を前にして、まず、心が揺れることが前提にある。
花のかおり、手触りを楽しむ。
そのあとで、目で姿を詳しく追っていく観察が始まる。
自然の中で「春を見つけたよ」という題で詩を書かせる。
春に親しむことから始める。
春夏秋冬すべて同じである。
自然を対象化することは科学としては基本の姿勢である。
しかし、自然と一体になれる感覚を養うことは、さらに、大切ではないだろうか。
今頃、公園に行くと、小さな子どもがあみをもってチョウチョウを追いかけている。
自然のなかで動植物と触れ合っている姿を目にするとほほえましく思う。