教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想593回 担任の資格だけで 子どもに急接近しない

私が中学に進学した時でした。
担任は30代ぐらいの先生でした。
生徒の一部がその先生を囲むほど人気があったようです。
その理由は、その先生が生徒に対して、フレンドリーな接し方をしていたからです。
私もその先生と初めて向き合ったとき「○○、なんでも相談に来いよ」と笑顔で言われました。
私は、その時、心なかで呟きました。
「この先生とは、初めて出会って親しくないのに、どうして、自分の悩みを相談しなければならないのか」と疑問に思いました。
先生だ、担任だという肩書で安易に近づかないでほしいと思ったものです。


小学校においても、4月当初に、私の同僚の先生は、子どもたちに「今日からわたしが担任です。いつでも相談にのります。休憩時間は一緒に遊びましょう。」と、声をかけておられました。
私は、相手の子どもがどんな子かわからない、子どもも先生がどのような人かわからないのに、どうして、そのようなことが言えるのか疑問に思いました。


4月は、担任の先生になれても、子どもたちにとっては、「ぼくの、わたしの先生」ではありません。
そこに大きな誤解が生じています。
道行く人に声をかけて、「なんでも相談してください」と言っているようなものです。


担任という資格だけで、子どもたちに急速接近は禁物です
観察目的の程度にすべきです。
4月に、先生は休憩時間に子どもたちの遊びの輪に入ります。
子どもたちと親しくなりたいと思い、遊びをとおして親睦を深めようとします。


先生に好意的な子もいます。
しかし、大半は、最初において真っ赤な他人同士です。
子どもたちは陰で囁きます。
「ぼくらの遊びに勝手に入ってほしくない。自分たちのルールが変えられることがある」
「先生に気をつかって息抜きにならない。」
なかには、
「勉強の時につきあってやっているのに、どうして、遊びまでつきあわないといけないのか。」
子どもたちの本音がもれてきます。


遊びは、子どもたちと過ごす日々が充実していくなかで、「先生も仲間に入れようよ」という自然な声があがって、先生を子どもたちは誘うのです。
したがって、子どもたちから遊びの誘いがあるまで遊ばないようにします。


先生は、子どもたちに歩みよることで、親しみやすい先生を演出したかったのでしょう。
でも、子どもたちが先生に歩み寄るのは、「親しみ」ではなく「尊敬」からです。
授業を通して、先生の指導、博識にふれて、学習内容に興味関心をもち、初めて、その向こうにいる先生に好意をもつのです。

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