教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 551回 マニュアルだけで 退職しますか?

色とりどりの花が花壇に賑わいをもたらしています。
家庭で咲かせた花を切って、いただくことがあります。
「この花、素敵だから分けてほしい」と言われることもあります。


生け花は、どんなに美しくても一週間ほどで衰えていきます。
同じ花を咲かせることはできません。
根がない花は、自分で持ち帰っても再び咲かせることはできません。
しかし、種であれば、いつでも花を咲かせることはできます。


今、教育の世界は、マニュアル的な話なら耳を傾けるけど、少しでも理論に話が傾くと、敬遠される傾向にあります。
教育の根がなくなりつつあります。
どうしたら」というハウツーが先行します。
お手軽だからです。
スーパーの総菜を買えば、お手軽に誰でもおいしく口にすることができます。


しかし、教育がお手軽なマニュアルに傾きすぎるとどうなるのでしょうか。
どのようなマニュアル、方法にも、それを生み出した先生の考え方、心があります。
そこに、耳を傾けることが大切だと考えます。


ハウツーは、製品をつくる時に必要です。
同じ製品を大量に造り出すためです。
でも、教育の対象である子どもを前にして同じことが言えるでしょうか。
教育、授業の一般的なハウツーはあっても、個々の子どもと向き合うハウツーは個別的なものです。
一般化されている技術、対処の仕方は使えないものです。


方法は、子どもへの願い、目標を持たれる先生の優しさから生まれます。
指導理念の底には、先生の子どもに対する優しさ、厳しさが横たわっています。


授業参観をさせていただくとき、一つ一つの先生の言葉かけ、指示、発問、助言に、授業者のどのような思い(子どもへの指導理念)があるのかを考えながら見させていただきました。


先生の指導技術が素敵だと思って、自分でもしてみようと思ったことがありますが、自分の学級風土では育たないこともありました。
それよりも、指導者の魂に触れることのほうが、私にとっては、大きな励みになりました。


マニュアルを否定はしません。
しかし、その多くは、自分で生み出したものではありません。
自力で生み出せるような先生になりたいと思いました。
そのためには、多くの授業者、教育者の精神に触れることが大切です。
先生の方法は盗むな。
熱き思いと考え方を盗む努力を少しばかりしてきました。


今、家庭菜園をしています。
農家の方がつくる野菜を自分の力で、自分の庭で、種から育てることが好きです。
できは悪くても私のトマト、きゅうり、トウモロコシです。
授業も教育も同じだと感じています。


ちなみに、勉強会で聞く話てすが、30代後半の先生が、誰かのハウツーばかりをだしてこられるようです。
自分の方法がありません。
いつも他人のハウツーを借りることばかりしているそうです。

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