教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 527回  先生の挫折感 屈辱感 劣等感 そして成功感

先生の中には、小・中・高・大と無難に過ごしてこられた方もいます。
他の社会の人間関係も知らないまま教職につかれた方もいます。
学校に勤めると、周りの大人から「先生、先生」と持ち上げられます。
最初から、学級という閉鎖的な、自分の思い通りになる環境を与えられます。
まわりは子どもばかりです。
先生としの迫力は感じられません。
すいません、すべての先生のことではありません。
ほんの一部だと考えてください。


先生としての迫力がないのは、挫折感を味わっておられないからです。
思い通りにならない子どもたちを前にして、実践を試みても、跳ね返されることも多かったはずです。
私は、子どもに向き合って生まれる挫折感を、受け止めることが大切だと考えています。
挫折感として受け止めないとどうなるのでしょうか。


子どもがよくない、地域や家庭が悪いなどの理由で、自己逃避することになります。
学級に事件があると担任は「ふだんから指導しています」「言い聞かせています」と言い訳をします。
決して、先生は、自分が悪いとは言いません。
もちろん、自分のこととして、指導の問題として責任を感じられる先生もいます。


指導について、保護者から誤解されることもあるでしょう。
先輩の先生から、指導方法について、辛辣な言葉を受けることもあるでしょう。
屈辱的な場面に出会うことも多いです。


他の先生の指導法と比較すると、自分の指導はだめだなと思うことがあります。
あの先生の周りには、子どもたちが寄っていくのに、自分の周りには・・・。
体育の得意な先生が、子どもたちの前でマット運動や水泳、球技運動を模範演技されているのを見ると、劣等感にかられることがありますね。


このような先生の挫折感 屈辱感 劣等感は、誰にでも程度の差こそあれ、味わうものです。
味わうことができる自分を出発点にします。
それを乗りこえるのが教育実践です。
先生は、自分自身の抱いている負の感情を超えていくこ過程において、子どもたちの前に立つことができると考えます。


かっこいい先生ではなく、かっこ悪い先生になります。
自分は、先生として、低い位置に立ちます。
できないこと、失敗の多い先生として歩みます。
そうでないと、失敗しない授業、失敗しない子どもとの関わり方ばかりを求めます。


子どもの前に立つことのできる先生は、とても不完全な人間です。
しっかりと悩み、先生としての自分を育てられる先生、その過程にしか、子どもを育てる力を身につけることはないと考えます。


私は、若い先生の初々しさを失ってほしくないです。
実践家として、行動家として、生きてほしいと思っています。
理論家ではなく、実践家として、毎日、子どもたちと汗を流していける先生であってほしいです。
先生の仕事は、結果ではなく、行動していく過程そのものです。
ごめんなさい、私の勝手な言い分になってしまいましたね。
それでも言います。
教師は、評論家ではなく、実践家です。
医者で言えば、大学の研究医ではなく、街の臨床医です。


私の師匠にあたる先生は、かつて、国立の大学の先生として迎えたいという依頼があったそうです。
私は、すてきなことだと喜びました。
しかし、先生は、私の前で次のように言われました。
「今、こうして、先生でいられるのは子どもたちのお陰です。その子どもたちをおいて、研究機関としての大学に行ってしまうと、私の先生としての、実践家としての道が途絶えてしまいます。だから、断りました。私の幸せは、子どもたちの中にあります。
私は、先生のこの言葉を、生涯忘れることができませんでした。

×

非ログインユーザーとして返信する