教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 526回  自分を大きくみせる言葉の多用 先生 学校

企業に勤務する方と、お話することがありました。
中間管理職の肩書を持たれていました。
お話をされる姿から、それなりのオーラを感じました。
仕事で苦労されているにも関わらず、淡淡とお話される姿に感銘を受けました。
その話の真実味に魅了されたものでした。


ところで、教育界におられる先生の姿はどうなのでしょうか。
企業人ほどの迫力を感じなかったのは私だけでしょうか。


先生の話を聞いていると、話せば話されるほど内容がむなしく感じられます。
これだけ頑張っています。」
これだけ努力しました」という自分を広げる言葉が目立ちます
努力されたという言葉が多用されるわりには、その結果としての子どもの成長が語られません。
どのようなことを、どのような方法で努力された結果、子どもはどうなったのかが聞こえてきません。そこには成果も挫折もありません。


一人一人を」という決まり文句が多用されます。
一人一人は違っています。
同じ子どもはいません。
私は、一人一人に簡単に対応できなくて苦しんできました。
そこに、先生としての悩みを抱えていました。
それをいとも簡単に「一人一人を見守っていきましょう」「一人一人をていねいに指導しましよう」と言われると、そんなことはできるはずがないと思ったものです。


職員会では「共通理解」という言葉で、職員会の提案が締めくくられました。
「共通理解しましょう」という言葉が、提案内容を締めくくる時に使われます。
難しい問題が発生すると、「共通理解の場を多くして」「共通理解しながらすすめていきましょう」と言われます。
しかし、どうなのでしょうか、共通理解できない内容こそ、大切にされるべきことです。
共通理解という名目のもとに、話し合いが打ち切られてしまいます。
共通理解は、ある意味では集団思考の停止ですね。


過去のことですが、ある同和教育(人権教育)の研究大会が、ある学校で実施されました。
私も参加しました。
分科会では、地域や子どもたちの実態が紹介されました。
さらに、ぶ厚いプリント冊子が配布され、こと細かく手立てが書かれていました。
そのプリントを読むと、「私たちの学校では、他の学校と違って、素晴らしい取り組みをしてきた」といわんばかりの内容でした。
さらには、「私たちの学校が教育を支えている」とまで豪語されたのを覚えています。


その研究会では、授業参観の時間もあり自由に子どもたちを見て回ることができました。
それだけに、先生方の指導方針(プリント冊子)と現実の子どもたちとかけ離れている気がしました。
企業でしたら、計画は:結果を伴います。
そうでないと企画案は採用されません。
会社は発展しません。


しかし、教育の世界は少し違うなと感じていました。
私は、その研究会の場で発言させていただきました。
「先生方の指導計画と実践案はずはらしいです。しかし、子どもの変容がどこにも書かれていないのはどうしてでしょうか。」と話してしまいました。

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