教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 519回 子ども 個ども 孤ども

子どもたちを形容する言葉を並べてみます。
かわいい子 愛らしい子 可憐な子 はつらつとしている子 快活な子 活気のある子
素朴な子 まじめな子 素直な子 のびやかな子 しなやかな子 いじらしい子
けなげな子 かろやかな子・・・。


これらの言葉は、過去において、子どもを表現する時に使われた言葉です。
ところが、現在では、子どもの形容に役立たない言葉が多くあります。


今の子どもたちを見ていると、子どもという世界の住民ではありません。
何か世慣れた大人の感覚がしみこんでいる子どもが多いように思えます。
全体に暗い顔で歩いています。
意気消沈している子どもを見かけます。
特に、道を歩いている子どもを見ると、前途に不安を抱いるような子どもに出会います。
どこか大人を警戒している空気を感じます。(私の人相がよくないからでしょうか)


子どもの文化、児童文化と大人の文化との間には、境界がありました。
しかし、今では、児童雑誌を開いても、おしゃれ、ファッションの情報であふれています。
ネットによる情報は、子どもたちを大人社会に引き込んでいます。
子どもたちは、裏情報ネットでつながっていることがあります。
子どもたちは、「子ども」から「個ども」、そして、「孤ども」に変わっていることがあります。
先生も親も子どもたちとの関係が希薄になってきている証左でもあります。


その原因の一つとして、「育てること」を見逃しています。
親は、「養育」の義務を「養う」ことに終始している傾向にあります。
「養育」の「育てる」という面を見逃しているように思えます。
誤解のないように言いますが、これらのことは、あくまで一部であって、多くの親がそうだと言っているのではありません。


先生、学校に目を移しましょう。
教育」の「教える」ことに終始して、「育てる」ことを軽視しています。
何を、どのように、効率的に教えるかが強調されています。
どこかの自治体の声として、学びを中断させてはならないと言われていました。
そのための方法として、ネット授業の導入ということでした。
そこには、「教える」はあっても「育てる」は消えています。
学力=人間の価値という構図が前提となっています。


集団社会から子どもたちを切り離して、教育をしていると言えるのでしょうか。
道行く子どもたちの表情が気になって仕方がない今日この頃です。

×

非ログインユーザーとして返信する