教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 51回 指導案は 失敗が わかるために 書く


 指導案をつくるのは、授業が計画どおり進むことが目的ではありません。
 授業が計画どおりいかないことを確認するためのものです。
 そんなバカなと思われるかもしれませんね。


 機械部品や大型機械は、設計図があって、計画された通りにつくっていかなければなりません。少しの間違いも許されません。ものづくりとは、そういうものです。


 しかし、人間相手の仕事はそうではありません
人間そのもの、子どもたちそのものが定数ではなく変数だからです。計画したとおりいかないのは、子どもたちが生きている証拠です。


生きている子どもたちを相手にするとき、指導案はどのような役目があるのでしょうか。


計画どおりいかないのだったら、指導案を書いても書かなくて同じではないかという疑問がでてきます。
そうではありません。
計画を立てて、子どもたちに臨んだことで、計画どおりいかないことがわかるのです。なにも書くかなければ、何がよくて何が悪いのかわかりません。


授業で教室に入るとき、「今日は、このような授業をしてみよう」という簡単な計画をもって入ることはとても大切です。そして、授業が終わって教室からでるとき、どこが問題であったかがわかります。
どうしてうまくいかなかったかを考えるには、前もっての計画、指導案が必要です。授業計画、自分はこうしてみようという思いがあるから、うまくいかないことが見えてきます。もちろん、毎回、指導案は書けませんので、簡単な流れだけでもいいです。


今、指導案を書いて授業をするというのは、研究授業ぐらいではないでしょうか。そのときの授業後の研究会では、「なぜ、指導案と違ったのか」ということが問題になり、その根底には、指導案どおり進めるのがよい授業であるという考えが流れています。


先日も私のところに勉強で来られている先生が参観日の指導案をもって臨まれたのですが、その時の感想が「もう一つうまくいかなかったです」と少し落ち込んでおられました。
私は「うまくいかなかったことがわかるということは、あなたに、計画があったからです。もし、何も準備されずに授業されたら、それさえもわからなかったですよ」とお話ししました。


毎時間の指導案を書くとなると、かなりの時間と紙面を使いますが、、目の前にはいない子どもたちを想定しながら、指導案を書くことが楽しいものです。


生きた子どもたちを相手にするのですから、以前に使った指導案がすべて役に立つということはありません。指導計画は、担任(担当)しているこどもたちが教えてくれます。指導案を書かなくても、授業の構想は計画してから授業に臨む必要があります。
子どもたちの笑顔が待っています。


指導案の形式は、先生方が自分にとって使いやすいものを工夫されたらいいです。何種類もあっていいのではないでしょうか。教科ごとにちがってくるでしょうから。
ただ、授業を構成する発問を3つに絞るようにしていました。


指導案は、授業で失敗できるためのものです。
うまくいかなったところがわかるためものです
たとえ、五分間でも指導案を書いてみるといいと思っています。

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