教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 472回  学校は商店街、各教室は個人商店

授業を誰にでも公開して、お互いに磨き合うということが少なくなっているようです。
一年間の職員研修で低中高の各グループが授業発表するのに、その授業者を決めるのに手間取っているということを耳にしました。
このようなことは、今に始まったことではありません。


「わたしは、去年、代表で授業発表しましたので」
「わたしは、ちょっと体調が完全ではないので」
「わたしは、校務分掌の仕事が忙しいので」
なんとか言い訳を作って辞退される先生が多いようです。
先輩の先生は「若いうちに勉強しておくのがいい」と言われて、授業発表を若い先生に任せようとされます。
若い先生も「勉強だから」と言われたら仕方なく引き受けるしかありません。


ある学校では、授業発表の先生は、すべて臨時講師の先生になってしまったと聞きました。別に、だれが発表してもいいわけですので、臨時の先生であってもかまわないのですが、学校の職員が、自分の授業公開を頑なに拒否される空気があるようです。


かつて、私が他校の研修の講師で出かけたときのことです。
ひとりの先生が授業発表されるので、助言者としていきました。
私は、校内で授業前に、他の先生と話す機会がありました。
そこで、それぞれの先生に次のような質問をしました。
「今日、発表される先生は、ふだん、どのような授業をされているのですか」
だれも、具体的にその質問に答えることができませんでした。


それなのに、授業後、「今日は、いつもより子どもたちが活発に動いていました」と発言されるのです。
ふだん、発表者の先生の授業を参観していない先生たちが、どうして、このような発言ができるのでしょうか。


企業では、社員一人ひとりの仕事が何であるか、他の社員も具体的に、ある程度把握しています。
しかし、教員社会では、教室が隣であっても、どんな授業(教育活動)をしているかわからないことが多いようです。
学校の各教室の集まりを商店街にたとえるなら、各教室は個人商店です。
商店街でそれぞれの店の人たちは、隣の店が何をどのように売っているかを知っています。
一つの店が思わしくない状況になると、商店街全体の空気も沈滞してしまいます。


学校の話に戻します。
先生の仕事の核は授業(教える・育てる)です。
その授業の営みを学校全体で把握していないことが問題だと思うのです。
職員全体で各教室、各先生を育てる、支援していくことで、学校全体の教育力は増幅されます。


私は、職員研修の係を担当させていただいた時は、日常的にだれにでも授業参観ができるようにしました。
たとえ、5分間でも、廊下を歩いている時に、興味関心がわいたなら、すうっと、その教室に入れるように共通理解しました。
このしくみで一番喜ばれたのは、管理職です。
管理職が堂々と先生方の教室に入り授業参観できるようになったからです。
教室に足を踏み入れ、少しだけでいいのです。
それだけで子どもたちから出ている波長が伝わってきます。
板書が素敵だと思ったら、教室に入って授業を参観します。
子どもたちが盛り上がっているのを見たら、教室に入って、何がそうさせているのかを分析します。


先生にとって、授業(学習指導)は、子どもたちに迫る大切な営みです。

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