教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 471回  肉眼でみる、心眼でみる

梅まつりが各地で行われています。
私は、有名な梅まつりに足を運びました。
そこには、予想外に多くの人々で賑わっていました。
人々は、梅の香りが漂うなかで、梅の開花を楽しんでおられました。


私は、梅と同じくらい、鑑賞している人たちに関心を寄せていました。
私は、どこへ行っても人間観察を怠りません。
人間の在り方を考え、私自身を振り返るヒントを与えてくれるからです。
その梅まつりの会場で、少し違和感を覚えました。


カメラを手にした人々が、ひたすら梅の花を前にしてシヤッターを切っておられました。
写真撮影に夢中になって、じっくりと梅を楽しんでおられる人が少ないのです。
梅の花をカメラのレンズごしに見ておられました。
じつくりと鑑賞を楽しむという様子がありません。
とにかく、写真をとることに夢中になっておられました。


私は、写真に詳しい者ではありません。
でも、カメラを手にしています。
私は、風景を見て、私の心が動かない限り写真に収めません。
写真にとるというのは、風景の中の感動を切り取ることだと考えています。
ですから、心が何に向かって動いているのかが問題なのです。
その感動の中心を実際の風景から切り取るようにしています。
しかし、私は、技術的に未熟ですから、撮影した写真は、私の意図したものと違っていることが多いものです。ドシロウトの極みです。


肉眼だけでなく、その風景を心眼でみることを大切にしています。
教育の話に入ります。
デシダルカメラを子どもたちに持たせて、観察したり校外学習に出かけたりすることが多くなっています。
子どもたちの様子を見ていると、じっくりと事物を観察しないで「一応、とっておこうか」という調子でシャッターを押しています。
写真にとるからということで、自分の目で見つめる、見抜く、見切るという緊張感がありません。
子どもたちは、被写体を説明的にとろうとします。
子どもたちの観察力、感動力の低下がうかがわれます。


私は、子どもたちにカメラを持たせて、見学や観察をするときに、次のような指示を出します。
「みなさんは、カメラを手にしていますが、できるだけ使わないようにしなさい。」
「レンズで見るのではなく、あなたたちの目で詳しくみなさい。」
「そして、本当に素敵だ、すばらしいと思って瞬間があったら、カメラを向けて、その感動を切り取りなさい。」
「カメラで写真に収めるのは3枚にしなさい。」
「3枚の写真であなたの感動を伝えなさい。」
「それは、あなたの写真を見た人が、あなたのねらいがわかるように写しなさい。」


肉眼でみる、心眼でみる力を育てたいものです。

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