教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 425回 長期不登校児 姿を見せ合わない出会いから

前回、子どもと先生の距離感をお話しました。
今回は、不登校の子どもを取り上げます。


現在では、かつてほど登校させようとする指導を強く行わないようにしているようです。
それは、学校以外に不登校の子どもたちを指導する施設が増えていることもあります。
さらに、勉強だけなら自宅でも可能な環境が設定されています。
そのために、不登校の子どもたちをなんとか登校させようとする学校や先生方の強い思いは薄くなってきているように思います。


しかし、私が何人かの不登校児と関わってきて感じたことは、彼らは、他の子どもたち以上にみんなと学びたいという気持ちが強いことでした。
表面的なエネルギーは弱いようですが、内面的なエネルギーは強いものがありました。


学校のなかで、半年以上登校していない子どもに対して、先生方は「あの子は登校しないです。これからも難しいでしょう」と簡単に、新しい担任に引き継ぎます。
先生や保護者から諦められた子どもの気持を思うと、自分なりに関わってみたいと思いました。
ただし、私は、子どもを登校させようという強い思いは持たないようにしました。
子どもの人生です。
先生の力で動かそうとすることに無理があります。
ただ、子どもの叫びを知りたい、関わりたいという思いで、一人の6年生の女子を引き受けることにしました。


彼女は、4年生の3学期ぐらいから登校をしていません。
そのかわりに市の施設(不登校児に勉強を教える施設)に通っていました。
朝、母親に連れられて施設の教室に行きます。
そこには、数人の子どもたちが勉強しています。
子どもたちは、お互いがあまりかかわることなく学習していました。


彼女の最後の学年、6年生です。
保護者は、できるなら小学校最後の学年なので、登校できて卒業させたいという思いを持っておられました。
1年3カ月の空白を埋めるのは難しいかもしれないと思いました。


さて、私が最初に考えたのは、学校や先生の「登校しよう」という圧力をかけないようにすることでした。
彼女は、亀に例えるなら自分の首を出していません。
時々、頭を出しては引っ込めている状況のようでした。
亀は自分で自分の首を出さない限り歩き出しません。


まず、彼女を登校という圧力から安心させることでした。
4月の始業式、私は、6年生の担任になり彼女を受け持つことになりました。
彼女も同じクラスであることを他の子どもたちに伝えると、同じマンションの子どもが一人いました。親しくはないけど知っているということでした。
5年生の時は、同じマンションなので、学校の手紙を届けていました。


私は、彼女と直接会うことをしませんでした。
二週間は、会わないようにしました。
彼女は、新しい担任が訪問することに不安を感じているはずだと思いました。
今までの担任は、定期的に彼女の家を訪問して、登校するように要望していたようでした。


まず、彼女を安心させることでした。
距離を詰めないようにします。
一歩つめたら彼女は一歩後ずさりするからです。


最初の実践
始業式が終わって、その日の午後、私が学校で栽培しているチューリップのつぼみのついた植木鉢と手紙をもって彼女の自宅に行きました。
開いたチューリップではだめです。
これから開こうとするつぼみをもつチューリップです。
開いてしまうと彼女の今の心の状況とのギャップが大きくなることを避けました。


どのような不登校の子どもでも、学年が変わる時に、登校してみようかなというかすかな願いをもつようです。
しかし、今まで学校に顔をだしていない不安と恐怖、友だちの好奇な視線で怖いようです。


私は、彼女に直接会わないようにしました。
チューリップの植木鉢の袋に手紙と一枚の写真を入れて、彼女の家の玄関の前に置いて帰りました。
ドアホンも鳴らしませんでした。
手紙には「6年1組担任の〇〇です。よろしくね」とだけ書いた紙と教室の全景を写した写真を入れておきました。
これが私と彼女の最初の姿を見せ合わない出会いでした。

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