教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 412回 やる気を失う子、わからない子の原因を指導者に求めると

やる気、学習意欲の低下は、社会、家庭環境に起因することもあります。
わからない子をつくりだす原因を教育体制に求めることもあります。
しかし、それは、政治や地方自治に任せるしかありません。
私たちがどんなに声を上げてもなかなか変わらないですね。


今回は、やる気がない、わからない子を作り出す原因を指導者に求めてみます。
私は、この四つの原因に当てはまっています。
自分なりに実践してきて,目の前の子どもたちから学んだ四つのことです。
私が自分を振り返る視点でもありました。


ろくに教材研究をせずに教えられている子どもの心のむなしさ
興味づける工夫もなし、自分自身が教材に自信があるわけではない、だから、子どもたちを指導するときに迫力がありません、
先生の質問に応答して学習が終わる時の子どもたちのむなしさ、そこには、喜びがありません。
私には、子どもたちのつまらない表情が心に残ります。


通りいっぺんに教えられて、さて、あとは宿題、自分でやりなさいと突き放される子どものわびしさ。
よくわかるまで丁寧に教えてほしい、教えたらそのあとのケアをしてほしいと子どもは思っています。
これは、現場ではよくみられる光景です。
「あとは宿題ね」「自分でしておきなさいね」
宿題にだすためには、全員がそのスキルを理解していることが前提です。
できない子どもがいるのに、「あとは各自で」と任せてしまいます。
それを自主学習と呼ぶ方がいます。
でも、たまには、こうすることもありますね。


興味づけも工夫もこらさず、型のごとく教え、型のごとく終わる授業を受ける子どもの心の味気なさ。
一年間、同じパターンの学習過程です。
次の先生の授業の一手を子どもたちはわかっています。
学び方に新鮮さがありません。
子どもたちは、たまには、違った方法で勉強してほしいと思っています。
授業、学びの過程は、できるだけ子どもにとって新鮮であるほうがいいですね。
でも、ベテランの先生ほど、同じやり方で授業をされています。


できない子どもを無視し、できる子ども中心の授業を受ける子どもたちの悲しさ。
手を挙げている子どもたちを指名して授業を進行させる先生。
「指導案どおり進みました」と、平然と話す先生。
できない子どもがいると、計画通りにいくはずがありませんね。


授業に停滞、淀みがありません。
子どもたちの学びは真っすぐではありません。
興味関心、理解の程度が違います。
そのことを前提にして、指導案が組み立てることが求められています。
しかし、これは、難しいことです。
どうしても何人かの子どもたちを置き去りにすることがあります。
だから、次時の授業で救えるように計画の修正をします。


最初に言いましたように、これらは、私の反省です。
私自身の姿でもあります。

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