教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 411回   授業者、実践者としての道 3つの手

3つの手があります。
一つ目は、努力から生まれる指導の決め手
二つ目は、情熱からほとばしる指導の打つ手
三つ目は、人間性からにじみ出る指導の差し手


この三つの手は、授業に対する先生の姿勢であり、筋道であり、手順です。
こうした手は、先生のたえざる努力、失敗、つまずき、さらに、工夫によって築き上げられるものだと思います。
この三つは、結果ではなく、指導者の姿勢です。


授業から飾り立てやわざとらしさなどのむだをなくします。
子どもにへつらってはいけません。
人気とりのための授業ではありません。
参観授業のための飾り立ても必要ありません。


教材の核を見つけ、つかみだし、子どもにぶつけていき、子どもの心にぎりぎり食い込みます。
一人一人の子どもに「よし、やるぞ」という気を燃やせるようにします。
「わかった」「できた」そして「ぼくでもやれる」という喜びと自信に浸らせます。
これを実現させるための授業力は生易しいものではありません。
なかなかうまくいかないものです。
私が到達できなかった目標でした。
でも、結果よりもその過程、子どもたちに向かっていく姿勢が大切だと思ってきました。
授業者がしっかりした目標をめざして取り組む姿勢が子どもを感化します。
その場限り、子ども好みに迎合した内容では、子どもを一時的に楽しませることはできても、学力を身につけることはできません。


今、子どもたちに迎合した授業が多いです。
子どもたちにわかりやすく簡単に習得できるような授業になっています。
子どもたちの能力、その可能性を思うなら、子どもたちの潜在的な能力を引き上げようと努力するはずです。
そのような授業においては、厳しさが要求されます。
授業には、学びの山場があります。
ここは、どうしても子どもたちの力で乗り越えてほしいという場面です。
子どもたちが全力で追究する場面です。


授業者は船を運行させる羅針盤を持っています。
今、どの方角に向かってどこをめざしているのかを把握します。
その場かぎりの授業ではなく、明確な方向性を持たせます。


時々、一生懸命なさっている先生の授業が「何々流の授業」だと批判されることがあります。
個性的な授業は嫌われ、一般的な誰もができる授業が大切であると言われた先生もいます。
誰もができる授業、マニュアルがはっきりした教え方は必要です。
しかし、それでは、指導者としての先生は誰でもよいことになります。
十人の先生がいるとすれば、すべてがその先生、授業者としての流派を持っています。


授業に指導者の情熱と人間味が表れるのはしごく当然のことです。
子どもたちは、その先生の人間的なものに惹かれていきます
その先生のあふれる情愛のなかで(少し大げさかも)、子どもたちは自信をもって学んでいきます。
そのような授業を参観させていただくと、心温まる思いがします。

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