教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 385回 子どもに「わかったですか」は禁句

授業中でよく使われる言葉です。
国語の音読の場面です。
「読める人は手をあげて」「うまく読めない人はいるかな」
最初から読める、読めないと子どもたちを振り分けています。


「先生の説明でできますか、できない人はいませんか」
「できない人は手をあげなさい。」
できない人が子どもたちの前に姿をさらすことになります。


学級集団の親密度が高い場合は、問題はありません。
わからない、できないことを大切にする共通意識をもっているからです。


しかしながら、多くの集団学習の場面ではあまり賛成できません。
先生は、子どもたちに「わからない」「できない」を問う前に、子どもたちの表情から察知すべきです。
察知できない場合は、他の質問をしてわかっているかどうかを確かめるようにします。


ある学級では、算数の時間にわからない人が多かったので、わからない子どもたちを前に出して、どこがわからないかを説明させたということでした。
私は、その先生からそのことを聞いた時に尋ねました。
「どうして、わからない子どもたちを前にだしたのですか」
その先生は、「わからない子どもが多いので、他の子どもにわからないところがわかるように説明させました。」と話されました。


今の話で、わからない子どもたちが友だちの前に立った時、誇らしげな様子で説明したでしょうか。
もちろん、わからないことを友だちの前で話させることはあります。
その時は、わからなさを話すことで、その疑問が友だちの共通課題になる時です。
「Aさんがわからないと言ったところは、みんなもわからないところではありませんか」「Aさんのだした疑問をみんなは自信をもって説明できますか」
子どものわからなさは、常に、学習集団全体の課題につなげるようにします。


最初の音読の例を再度取り上げます。
「今日、学習する3場面を読める人はいますか。」
何人か、手を上げます。
そのあとに「それじゃ、読めない人はいますか」と問います。
手があがらなくていいのです。
「みんなに尋ねるよ。国語の時間には一人で音読することがあるけど、読むのが苦手、自信がないから読む練習をする場にしませんか。」
「1場面を全部読まなくてもいいじゃない。一行でもいいじゃないかな」
「自分の音読の練習の場にしてみたらどうでしょうか。」


読める、読めないと二極に分けません。
できる、できないと二極に分けません。

子どもたちは、読みたいけど、途中でつまずいたらどうしょうかと心配しています。だから、読めないとしてしまいます。


「わかったですか」と先生は子どもたちに尋ねます。
私は、この言葉を若い時から好きではありません。
先生の言葉としては「禁句」だと思ってきました。
医者が患者に「治ったか」と聞くようなものです。
病気が治ったかどうかは、医者が診察して診断するものです。
先生も同じです。
わかったかわからないかを子どもたちの表情から判断できるようになることです。
もし、理解されていないと感じたなら
説明の角度を変えます。
説明をさらに詳しくします。
補助発問、助言を入れて、理解のステップを小さくします。


子どもの理解、達成度を確かめるのに、先生が子どもに言葉で求めてはいけないように思い続けてきました。

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