教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 36回 「わかりましたか」とたずねて「はい」と本当に言える子どもがいますか?

前回に続き、「わかる」ということについてお話します。
重複するところもありますが、大切なことなので続けます。
 「わかりましたか」という言葉を授業の中で何回使われるでしょうか。
「わかりましたか」という問いかけに対して「ぼくはわかりません」という子どもが何人いるでしょうか。
できる子どもが「わからないです」ということはあっても、勉強に劣等意識をもっている子どもたちは、「わかりません」とは言いづらいですね。


医者が診察のときに、「病気は治りましたか」と尋ねるのに似ています。
医者は、そのような言葉をかけるのではなく、医者自身の目と感性で患者の回復を診察します。


先生も同じです。
子どもが学習内容を理解したかどうかは、子どもの表情から感じ取ることが必要です。それができなかったら、理解しているかどうかを確かめる質問をすればいいのです。


先生の「わかりました」は、子どもにとっては恐怖になることがあります。
ある子どもは言います。「先生にわかったかと言われたら、わかったとしか答えようがないじゃない」(6年生)
 「わからない」と言ったら「どうしてわからないの」「こんな簡単なことがわからないの」「丁寧に説明したのにどうしてわからないの」最後には、「何回言ったらわかるの」というとどめの言葉が飛んできます。
やがて、子どもたちは、学習内容を理解するための心を閉ざします。


 学習であれ、学問であれ、「わからない」ということから出発します。
そして、「わからない」ことがわかっても、さらに「わからない」ことがでてきます。
 学ぶというのは、わからなさの連続であり、わからなさを意識してそれを前面にだしていく営みです。
「わからない」は、子どもにとって不安を伴います。
正解が求められる教室にあっては、「わからない」は禁句なのです。



具体的には、「わかり方ものさし」を子どもたちと考えてつくります。
「わかる」「だいたいわかる」「半分わかる」「少しだけわかる」「ぜんぜんわからない」。このうち、どこまでをわかったとするかを子どもたちと話し合います。 そうすると、「だいたいわかる」も「わからない」の中に入れるようになります。


授業では、子どもたちのわからなさを吐き出させるところからはじめます。
わからなさを吐き出させるために、先生が自ら「わからなさ」を正直に伝えるようにします。授業の中で、先生が「わからないので調べてくるね」と言ったり、「○○くんの考えが少しわからないのでもう一度話してくれないかな」と話したりして、「わからない」という言葉を多用します。


ちなみに、先生が授業の中で多用する言葉は「わかりません」「ごめんなさい」「ありがとう」です。具体的には、またの機会にお話しします。


わからないことを吐き出すこと(出力)から、教える(入力)ことへと移っていきます。
子どものわからなさを大切に受け止めます。「簡単にわかるな」と伝えます。わからないといった子どもを受け止めていきます。
わからなさは、学習意欲の原動力です。

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