教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想35回 学びとは 「わからなさ」を捨てないこと

学ぶ力とは、子ども自身が教えられたものに対して、自ら問いかけることができる力であり、内発的なものです。
 先生が教えたことに対して、「でも、こんな場合はどうなるのか」「本当にそれでいいのか」と簡単に納得しないことです。


 授業において、子どもたちに簡単に「わかった」と言わせないことです。


 「わかった」と思ってしまうと、それ以外の事実を追い求めようとはしません。
 授業がわかることばかりの追究に終始しています。
 しかし、学ぶというのは、「わからなさ」をどれだけつくるかということではないでしょうか。
 学べば学ぶほどに、わかったと思えることが、次の段階で、「それだけではない」「他にも考えがあるのでは」など、新たに視点をもつことが「わからなさ」を生みだしていきます。


 学びは、物事を多面的にみることです。
 授業において、子どもたちの視点をひとつに固定しないことです。
 そのためには、ひとつのことがわかっても、簡単に「わかった」といわせないことです。
子どもたちは「わかったふり」をしないと先生が納得しないことを知っています。
簡単に「わかった」と結論したほうが楽なのです。
こうして、先生も子どもたちも楽な勉強を選び取っていきます。


授業は、子どもたちの「わかった」という思いをゆさぶりつぶしていくことです。
「わかった」という子どもに対して「どんなことがわかったのか」ということを個々の子どもにたずねます。その答えが、子どもによってちがってきます。
そこで、「みんなは、わかったと言うけど、そのわかった内容がどうして違うのでしょうね」という問いかけをします。
そうすることで、わかったふり、なんとなくわかったらわかったことにしていること子どもたちに気づかせます。


学ぶ、学問をすすればするほど、「わからなさ」が広がっていくものです。
少し、繰り返します。
先生の「わかりましたね」は、子どもの新たなる学びを停止させます。
「わかる」というあいまいさに気づかせていきます。
子どもたちの「わかった」という内容を寄せ合うと、「わからなさ」が見えてきます。


子どもたちは、「わかったことの内容」を追究していません。
いつまでも「わからない」とすることは、面倒なことであり苦しいことでもあります。
先生にとっても、子どもたちの「わかった」と言ってもらわないと、次の学習のステップに進めないのでどこかで妥協します。
 わからなさは「迷う能力」です。


 学ぶというのは、どこまでわからないと言い張れるかということです。
 わかったと思っても、他の視点から見直すことができるかということです。
 学びにおいては、素直な子どもにしてはいけません。
頑固な子どもに育てるようにします。

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