教育随想 37回 わかるとわからないの間にあるものこそ学びの原点
さらに、前回に続きます。
私たちが物事を理解するとき、すべてがわかることはありません。
「わかりました」というのは、わかることをあきらめた時にでてくる言葉です。
なんとなくわからないところ、すっきりしないところかあるはずです。
でも、それ以上追究することが面倒になって「わかったことにしよう」ということになりがちですね。
「わからない」と言っても全くわからないわけではありません。
なんとなくわかるところがあるようなないような、そんな感じを受けることがあります。
ですから、わかったといえばわかったし、わからないと言えばわからないということになります。
なぜ、こんなことをお話しするかといえば、学校教育においいても、「わかった、わからない」の二者択一しか意思表示がないからです。
ほんとうは、わかるとわからないのあいだにある「グレーゾーン」こそ、子どもたちの本当の思いだと思います。
教育技術で「○○方式」という教育理論がありますが、すべての子どもがその中に当てはまることはありません。あたかも明確な理論であり技術であるということが伝えられていますが、そうでしょうか。
よくわからないあいまいなことがあるのに、一つの方式という形をつくることで、子どもに対する指導をあきらめることになるかもしれません。
ごめんなさい、少しややこしくなってきましたが、子どもは学んでいくとき、あいまいですっきりしない「わかるとわからないの狭間」にいるということを忘れてはならないと考えます。
授業の中で、指導したあと「わかった人は手をあげなさい」とか「わかりましたね」という言葉は、子どもたちにとって残酷ではないでしょうか。子どもは、わかるわからないの狭間にいるのに、「わかりましたね」と言われると辛いですね。
私は、「わかりましたね」という言葉を使わないようにしました。
使えなかったですね。自分の指導に不備があるのに、子どもたちに「わかったか」と念押しできなかったです。
ですから、子どもたちには「今の勉強で、はっきりしないところ、もやもやしているところはないですか」というような言葉になってしまいます。