教育随想 351回 恥ずかしながら 先生をしているという感覚
「先生は」ではなく「ぼくは」で始まる
私は、教員生活のなかで自分のことを「先生」と言うことは特別なこと以外にはありませんでした。(プログの引用には先生を使っていますが)
初任者の時は、「ぼくは」という言葉で子どもたちと向き合っていました。
子どもたちに「先生はどうして自分のことを先生と言わないの」と尋ねられたものです。子どもたちにとっては、他の先生が「先生は」と言っているのに、私だけが「ぼくは」と言っていることが不思議であったようです。
他の先生からも「あなたは、先生なのだから、子どもたちとは違うのだから、先生という言葉を使ったほうがいいよ」と指摘されたこともあります。
それでも、教員生活が終わるまで「私は」と「先生は」という言葉を区別して使いました。
未熟な私と未熟な子どもたち 同行者として
私は、子どもたちも私も人生を共に生きています。
私は指導的立場にあるので、勉強を教えるのですが、子どもたちから、私が教えた以上のものをもらっていました。
未熟な私が未熟な子どもたちと出会い、自己を振り返りなから、共に成長していくことができたらという思いを強くしていました。
ベテランの先生はともかく、初任者の私にとって、自分のことを「先生」と呼ばれると、少し引いたものです。
お互いを先生と呼び合う職員
子どもたちを前にして、先生という一人称代名詞で呼び合うのは仕方がないことです。子どもたちにとっては、先生なのですから。
ところが、学校の外でもお互いを〇〇先生と呼び合うことには抵抗がありました。
今でもレストランに入ると、お互いを先生と呼び合っている姿を目にします。
大学を卒業したばかりの私が、赴任した初日から先生と呼ばれることが恥ずかしかったのです。きっと、私のなかに、幼いころから「先生とは偉い人」というイメージがあったのでしょうね。
経験を重ねると傲慢になる私
ある程度、子どもたちを指導できるようになってくると、自分に自信がついてくると、「私は先生だ」という驕りのような感覚がでてきました。
「先生が言ったのだから」「先生が説明したのだから」「先生がサポートしたのだから」と、先生は先生はという自分を前にだしてしまいがちになりました。
この気持ちを私は、一番警戒しました。
だから、私は、自分のことを「ぼくは、こう思うのだけど、みんなはどうかな」という姿勢を保つようにしました。
しかし、経験を重ね、指導実績が積み重なってくると、どこかで、驕り始めている私が見え隠れしました。
「先生は」「ぼくは」の使い分け
私が一人の人間として語る時は、「ぼくは」という言葉から話しだします。
一方、これはどうしても聞いてもらわないと困るという場合は「先生は」となります。
このように使い分けしていると、私が「先生は」と前置きするだけで、子どもたちは緊張するようになりました
私が自分の言葉に最も緊張するときです。