教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 333回 教育 はかなさ むなしさ

卒業式、終業式のとき、子どもたちが教室から出て行くとき、私は、もう終わってしまったという思い、なんとなくむなしさのようなものを感じてきました。
これだけのことを教えた、育てたとは、どうしても思えなかったです。それでも、少しは感じたことがありましたが、それは、私の思い上がり、驕りにすぎなかったと感じました。


先生として、子どもたちを教え育てたと言われますが、去っていった子どもたちのどこに、その足跡が見られるのでしょうか。
もちろん、勉強が少し得意になったとか、性格が明るくなったとかいうことはあります。しかし、それが先生の力であると誇示できるものではありません。ほとんどが子どもたちの力、自覚、努力です。
私の中に残っているのは、一年間子どもとともに歩み続けた実践が来年度に出会う子どもたちの指導に少しばかり役立つだろうと思うことで、さらなる努力をしようと気を取り直したことでした。


先生の経験が新しい子どもにどれだけ役にたつものだろうかと疑問を持っていました。ベテランの領域に入ってしまうと、子どもを指導するとき、今までの技術や見方を引っ張り出して、目の前の子どもに当てはめてしまう危惧もありました。


毎年受け持つ子どものだれを取り上げても、先生として初めての子どもであり体験です。おなじ子どもはこの世に二人といません。
先生は、その子の指導には新米なのです。
だからこそ、過去の経験にとらわれることなく、新鮮な感覚、謙虚な心情を大切にして授業を創造していくようにしました。


「ベテラン」と呼ばれることの怖さを持っていました。
ベテランとは、その道において熟練者です。しかし、先生は、子どもたちの前では、常に、未熟者として接していくことが大切だと思います。先生は、生涯、道を求める者として挑戦者であり未熟者であることが、子どもたちを指導を指導する者の責任だと考えます。


職員や保護者から「先生はすばらしいですね」「いい先生ですね」とほめ言葉をかけられると、少しばかりうれしいものですが、果たして、そうなのだろうかと考えてしまいました。
とってもよい先生 どうでもいい先生 いなくてもいい先生
いつも自問していました。


教育は、知識を身につけるだけではありません。
身につけることを通して人間として育てます。
教育の「教」は、人間のすばらしさ、生きることの美しさを教えるものだと考えます。これを教科学習や集団学習を通して育てます。
教育の「育」は、子ども自身が自分の可能性を見つけ、希望をもった人生が迎えられるように、子どもの素材を大切に育て本人が気づくようにしてやることではないかと考えます。
外から与えるよりも、子どものうちにある才能を引き出す、気づかせることを授業の基底におきました。

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