教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 332回 授業が教育である時  決め手 打つ手 差し手

私は、子どもたちの基礎学力とは学習意欲だと考えて実践してきました。学ぶための課題の発見、そこにいくまでの学びの道筋、わかる、できるという満足感、そこで育てられる学習意欲を育てることが大切だと思いました。
もちろん、基礎学力は他にもいろいろありますが、授業者として、まず、子どもたちのなかに育てたい核だと考えてきました。


知識はいくらでも学ぶことで得ることができます。
知識は目的ではなく(大切ですが)人間形成のための手段になります。


学校が再開してからの授業は、内容の精選が必要です。これだけ理解できたら、あとは、一人で学べるだろうと思われる内容は何かと計画する必要があります。
今こそ、先生の授業者としての技量が試される時であり、高める時です。ある先生が子どもと出会えるのが喜びですと言われました。
先生は、子どもたちの前に立つことで、初めて先生でいられるのです。子どもたちによって先生としての資格が与えられます。そのことに、責任と喜びを持ちたいですね。


授業を通して子どもたちの学びを育てるための三つの核があります。
教材を前にして、これだけは指導しなければならない、学習内容の核を把握、「決め手」を持ちます。子どもたちによって、学習が思わぬ方向にいっても(悪くはないですが)、ここだけははずせないというものです。


授業を進行していると、子どもたちの考えや意欲が停滞することがあります。すぐに班で話し合わせて、指導者の逃げ道(失礼)として活用することがありますが、そうではなく子どもの考える角度、視点を変える問いかけ、「打つ手」が必要です。
予想される困難を事前に考えておくとき、その場面を修正するための「打つ手」が必要になります。


三つめが「差し手」です。
これは、子どもたちの考えに耳を傾けて、子どもたちの思考の広場に近づいて、子どもたちの視点で教材を見つめることです。
うまく説明できないですが、子どもが教材をどのように把握しているかをさぐるために、子どもの中に入るのが差し手です。


決め手、打つ手、差し手は指導案の中に書いておきます。
それでも、実際の授業において、子どもの理解の流れに応じて「打つ手」を変えなければいけません。さらには、子どもの見方をさぐり子どもの考えにより近づくための「差し手」が必要になります。


これに加えて、とても大切なことがあります。
先生方は、授業技術だけでなく、一番大切な先生自身のあり方を振り返ることが大切です。
家庭教師、ネットによる授業、教室における授業であっても、共通していえることは、先生の指導者としての情熱、力量、人間性が授業を教育に転換する決め手になります。
技術だけにひっぱり回されると、最も大切な決め手を欠くことになります。
先生の人生まっしぐらの姿が子どもたちを魅了し、希望を持たせ、意欲を増幅させるものだと思います。
ただ、誤解されないように言いますが、これらのことが、今、すべてできているということではなく、常に、今、たった今、そのようになろうとする努力をされている姿が子どもたちを魅了します。
年齢に関係なく力量に関係なく、努力する姿勢が「今、ここある」ことです。


生きることは、過去、未来にあるのではなく、「永遠の今」のなかに凝縮されていると考えます。

×

非ログインユーザーとして返信する