教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 329回 授業が教育である時 変数としての授業者

前回で先生の迫力について触れました。
一番大切なことは、言うまでもなく「やる気をもつ」ことです。
やる気さえあれば、子どもたちはついてくるものだよと言われたことがあると思います。
考えてみれば、「やる気さえあれば」どの仕事もなんとかなるものです。(なんとかならないものもありますが)


教育における先生のやる気、そんなに簡単なものではありません。
それは、対象が子どもという人間だからです。
先生がこのようにしようと考えて実行しても、子どもたちは思い通りに動いてくれません。どうしてなのだろう、これだけ事前に調べて考えたのにと思うと落ち込むことがあります。子どもが悪いのだと決めつけてしまえば楽なのかもしれません。


物をつくるのは、しかりとしたルートを通れば、どんなに時間がかかっても完成します。
人間は違います。変数だらけです。
独りの子どもに有効だった指導方法が違う子どもに使えるとはかぎらないからです。子どもたちが違うのですから、使えるはずがありません。


授業は、30人の子どもを前にすると、変数が30あることになります。子どもという変数は、それぞれ違った反応を示します。
指導案は、とりあえず子どもを固定して考えます。
一般的な子どもの反応や動きを想定して計画をたてます。
計画において考えた子どもは定数です。一般的な考えや活動を想定しています。そうでなければ指導案は完成しません。


その指導案をもって授業に臨みますが、実際の子どもは変数です。
それでも計画したとおり授業を進めるためには、あらかじめ自分が想定した(固定した)子どもをつなげて学習を展開しなければなりません。
想定外の子どもを相手にしすぎると、授業は拡散、脱線してしまいます。授業を進めるためには、何人かの子どもたちを切り捨てていくしかありません。「そんな考えもあるね」「おもしろいね」と声をかけながら、出発進行、見切り発車です。
このようなとき、時間、計画どおり無事終えることができたと納得させるか、それとも、腑に落ちない、もどかしさをもって授業を終えるかのどちらかです。


私は、授業を実施して、納得したことはほとんどなかったです。よくやったと思える授業は少なかったです。きっと、私の力量がその程度だったのでしょう。
ただ、うまくいかなかった、納得しなかったことが、その夜の私の課題になりました。そして、翌日、やる気、気を入れて子どもたちの前にたちました。その繰り返しでした。


実は、授業において、子どもたちを変数にしましたが、授業者である先生も変数でなければならないのです。
ネット授業は、子どもたちを固定していますので、先生が教材にそって教えていけばいいだけです。


授業者が変数であることを自覚することは大切です。
子どもの予期せぬ反応に対して、事前に考えていた計画案を修正、あるときは、捨てなければなりません。
このことが、授業者が変数であるということです。


授業者としてのやる気とは、先生自身が変数として子どもの変数に対応していくことです。
そこには、かみ合わないこと、空振りも多くでできます。
それを覚悟して子どもの前に立ちます。
授業は、先生がいかに変数になって子ども一人ひとり、あるいは、集団に対応できるかにかかっています。
そこに苦しさがあり楽しさがあります。
準備して出たとこ勝負です。


実際に書いた指導案は、授業が始まったら頭のなかで破り捨てます。
自分でたてた計画に縛られて身動きができなくなり、柔軟性を失ってしまうからです。

×

非ログインユーザーとして返信する