教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 328回 子どもは勉強しないものだ

「子どもは勉強するものだ。」
勉強をしない子ども、宿題をしてこない子どもは、先生にとって問題児になります。どうして勉強しないのだと、その原因を考えるとき、たいがいの場合は、その責任を子どもの怠惰に求めます。
自分の教え方が悪いと考える先生は少ないようです。
もっとも、内心では、そのように思われている先生もおられるでしょう。


「勉強するものだ」は、「学校は勉強するところだ」という役割からきているのでしょう。
高校生は勉強したくなかったら学校に行かなくてもいいです。
しかし、義務教育である小中学生は、勉強の意思に乏しくても登校しなければなりません。ですから、子どもたちの学ぶ意欲はそろっていません。


先生にとって義務教育とはどういうことでしょうか。
子どもたちを無理矢理(半ば強制的)に登校させて、勉強を教えようとしています。全員の子どもたちは、学びの意欲のスタートラインにたっていません。スタートラインにたたずに座り込んでいる子ども。ラインから遠く離れて他のことをしている子ども。
さて、徒競走のように、ラインにたってスタートできるように構えている子どもが何人いるでしょうか。


最初から構えている子どもは先生の指導がいらない子どもです。
義務として学校まで足を運ばせてまで、勉強を教えなければならない子どもが多くいるわけです。
だから、「子どもは勉強するものだ」と思いこむことは、現実の子どもたちから目が離れていることになります。


「子どもは勉強しない、嫌いなものだ」と考えるほうがより現実的ですね。そういったなかで、先生は義務として子どもたちを学校に集めているわけですから、その子どもたちに学ぶ意欲を育てることは、先生としての義務ですね。


「どうして宿題をしてこないの」
「これぐらいなら時間もかからないでしょ」
と、子どもたちを責める日々が続きます。
宿題をしたら宿題提出表にシールをはらせます。
意欲のある子はルンルン気分です。
意欲のない子は、仕方なくしてくるか、目立たない程度にシールをはってごまかしたりします。
はじめから独りで宿題ができない子どもは、シール表は自分のできの悪さを学級の友達にさらすことになります。


宿題提出表を活用することを否定していません。
それはそれなりに効果がありますが、その表を前にしてそれぞれの子どもたちは、自分をどのように評価するかを考えておく必要があります。


表にシールをはって、お買い物ポイントをためるようにする指導はあっていいと思っています。
ただし、副作用がでてきますので、早く切り上げるとこです。
先生の指導方法は、どのようなすばらしいものであっても、長く続けることで副作用が表れます。。
薬の服用と同じです。
効果と副作用を前もって意識して活用するようにしたいものです。


さて、子どもは勉強するものだという思いを、そこから一歩、二歩さがってみたらどうでしょうか。
子どもを見ている思いこみのフィルターをはずしてみたらどうでしょうか。
けんかする時に、お互いが自分の主張を譲らないと収まることはありませんが、一歩、二歩、自分が下がって考えてみると、相手の気持ちが見えてくることがありますね。


勉強をしたい子ども、したくないのも子どもというように考えると、それぞれの子どもたちの姿を受け入れることができます。その原因を忖度できるようになります。

×

非ログインユーザーとして返信する