教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 317回 全員発表 と 授業の質 とは無関係

教室の前に「全員発表」という掲示をしている学級があります。
研究会で取り上げられる内容として、全員参加したか、全員発表したかが取り上げられることがあります。


あるいは、全員発表までいかなくても、「多くの子どもたちが意見を言っていましたね。」という発言がなされます。授業の質を全員発表、あるいは、発表の数の多少で判断することがあります。


全員発表という場合は、「はい、いいえ」だけでも一回発表なのか、「わかりました」と声を揃えて言った場合も発表なのかという子どもたちの声が聞こえてきます。
子どもたちの具体的な学びの姿を全員発表に求めるのはどうでしょうか。
発表することと子どもが学んでいる、授業の質とはあまり関係がないと思われます。


子どもたちが黙って先生の話を聞き入っている姿、その時は両眼が広がらず中央に寄っています。ぼんやりしている子どもの両眼は広がっています。
さらに、ノートを使って考える子どもの姿勢は、背もたれを使っていません。前傾姿勢になっているからです。


友達の発表を聞いている姿、「うんうん」と簡単に頷いていません。
自分の頭の中で吟味していますから、簡単に頷かなくなります。
さらには、疑問をもち質問を提出するようになります。
私が授業をするときに大切にしたことの一つに、子どもたちから目を外さないことです。だから、時計を見ないようにします。
指導案も最初に頭に入れて、その都度見ないようにします。
そうはいっても、忘れたりしてみることはあります。
教科書を手にして授業をしたことはありません。
教科書の内容は事前に頭に入れておきます。
子どもたちの表情、両眼の動きに自分の感覚の焦点を合わせます。


授業は、子どもたちの動きを感知することが決め手になります。
なんとなく子供たちを眺めないようにします。
机の下の足が動いていないか。
ノートに書くために鉛筆を握ったとき、すぐに書き始めるかどうか、そこにためらいと迷いはないかを察知します。
全員発表という目にはっきりと見えるものだけにとらわれると、子どもの本当の心の動きを見逃します。


しかし、全員発表を否定する者ではありません。
ただ、発表の数が目的化しては意味がないのです。
全員発表は(班での話し合いも含めて)、個人の学びとの関係において必要です。
個人が、学習課題を深めたり広げたりしていく上で、全員の考え、発表が重要になってきます。


全員発表を問題にするならば、それによって学習がどのように深まったかを検証しなくてはいけないですね。
子どもたちが多くの友達の考えによって、刺激受けて思考を広げたり、追加したり、逆転したりすることに大きな意味を見い出したいものです。

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